議論というと違った意見を戦わせ、どちらが正しいかを判断するといったイメージがあるが、もっとも本質的なことは、議論の過程でそれまで見えなかった新しい方向が見えることにあると思う。議論の楽しさは、思いもよらなかった新しい展開があるときだ。その点では、違った見方や考え方をする人と議論する機会を持つことが大切なのだろう。

 海外に行って私が痛切に感じることの1つは、私も含めて日本人研究者が総じて議論が苦手であるということだ。これは互いに意見がぶつかることを避けるという日本人の気質に原因があるかもしれないが、なにより教育の結果だと思う。日本では子どもの頃から、できるだけ他人と違わないことを大事にする。時々報道されるいじめの問題も、異質な人を排除するような村社会を好む、大人の社会の反映かもしれない。

 国際化の広がりの中で、急速な変化に的確に対応できる能力を持つ人材こそが求められている。しかし教育現場にそれが反映されていないのではないだろうか。

異分野の人同士で話す
海外の大学のTea time

 議論する力は黙っていて身につくものではない。海外の会議に行くとそれを痛感する。海外の大学や研究機関では日中にいわゆるファカルティーメンバー(教職員)の研究者などが集まるTea timeがあって、違った研究室や異分野の人と茶とクッキー片手に1時間ほど自由に話す。おそらくメンバーはほとんどが参加しているのだろう。イギリスに行ったときは、Teaの国だけあって午前と午後、2回やっていた。ロックフェラー大学の夜のセミナーにはワインが出ることもあった。

 彼らは日頃から、専門分野のまったく違う人と会話をする訓練をされているのだと気づかされる。一方、日本の大学では、学生は入学時から学科にわかれ、研究室に配属されるといよいよ人間関係が限定され、狭くなってしまう。

 最近、大きな国立大学の理学部の教授職にある友人と話す機会があった。彼は国際基督教大学(ICU)の出身で、ICUと比べて学科の雰囲気に違和感を覚えたという。ICUは留学生や帰国子女も多い上に小さな大学なので、教養学部で自然科学を学ぶ学生は、生物、化学、物理、数学などを専修するにしても、日常的に1つの場で会話をする機会を持つ。自分が興味を持っていることを他人にわかってもらう訓練、違った分野の動向にも興味を抱く教育が自然となされることになる。