【素人の国家運営、その末路】ゲルマン諸王国の「悲劇」が教えてくれること
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

“素人”が国家を運営すると、どうなる?
375年、フン人の圧迫を受け、ゲルマン人の一部族である西ゴート人が移住を開始したことをもって、ゲルマン人の大移動が始まったと見なします。これを機に、各地のゲルマン人諸部族もまた、ローマ帝国を目指して次々と移住を開始し、のちに各地で王国を築きます。加えてさらに決定的な出来事が生じます。
395年にローマ帝国が東西に分裂したのです。その後ローマは二度と統一されることはありませんでした。分割支配により、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が成立しましたが、このうち西ローマ帝国はゲルマン人の傭兵隊長であったオドアケルにより、476年に滅亡します。
とはいえ、これは実態としては西ローマ皇帝位が「空位になった」と見なすべきもので、オドアケルは東ローマ皇帝の権威のもと、東方の宮廷との人脈を活かしながらイタリア統治に当たります。
ですが、彼もまた最終的に東ローマ帝国の命を受けた東ゴート人の侵攻を受けてたおれます。一方で、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、この後も1000年にわたって命脈を保ちます。交通の要衝に位置した首都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル/現イスタンブル)は、地中海世界の大都市という地位を長年にわたって保持し続けることになります。
ゲルマン諸王国が短命で終わった理由
さて、ここである問題が生じます。それは、大移動によって建国されたゲルマン諸王国が、どれも長期支配を保てなかったということです。では、なぜゲルマン諸王国は長期政権を維持することができなかったのでしょうか。
まず、諸王国において、支配層であるゲルマン人は少数派に過ぎないということです。諸国の人口比で圧倒的に多いのはローマ系住民であり、彼らはローマ帝国で正統とされたアタナシウス派(ニカイア派)を信仰していました。
一方、支配層であるゲルマン人たちも、少なくない割合がキリスト教徒ではありましたが、異端とされたアリウス派を信仰していました。この宗派対立によるローマ系住民の反感が、ゲルマン諸王国を悩ませます。
しくみの問題も大きかった
しかし、それにも増して問題なのは、ゲルマン人は有史以来、国家を運営した経験がないということです。
ここでいう「国家」とは「領域国家」を指し、すなわちゲルマン諸王国では、国土より効率よく税を集める官僚制(徴税システム)が欠落ないし不備な状態にあったのです。これでは到底円滑な国家運営などできるわけもなく、このためゲルマン諸王国は短命に終わる運命にありました。
(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)