【軍縮が国を救う!?】中国王朝に学ぶ「超意外な歴史教訓」とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

中国王朝に学ぶ「超意外な歴史教訓」とは?
中国の王朝、唐は、2代君主・太宗(在位626~649)が、後世に「貞観(じょうがん)の治」と称えられた優れた政策を実行し、国力を充実させます。これにより、太宗と続く高宗(在位649~683)の治世に、積極的な外征で最大領土を実現します。
300年近く続いた唐が滅びた理由
しかし、辺境防衛のために8世紀から設置された節度使(せつどし)と呼ばれる軍司令官が次第に台頭し、755年に節度使の安禄山(あんろくざん)と史思明(ししめい)を中心に安史の乱が起こると(~763)、節度使は裁判権や徴税権などを吸収して実質的に自立し、「藩鎮(はんちん)」と呼ばれるようになります。
末期の唐は藩鎮の割拠と抗争にあえぎ、907年に滅亡します。唐が滅亡すると、五代十国時代という分断の時代が再び訪れますが(907~960)、これも宋(そう)王朝(北宋:960~1127)の建国によって再統一がなされます。
さて、ここで2枚の地図を見てみましょう。一つは8世紀の唐王朝(図23)、もう一つは11世紀の宋王朝の地図(図24)です。


では、ここで問題です。
Q 唐王朝より宋王朝のほうが、領域がやや限られているのはなぜ?
まず、唐王朝は領域を拡大すると同時に、長い国境線を保持するために軍司令官職を設置します。それが、節度使だったわけです。しかし、強大化した節度使は、唐の衰亡ひいては50年以上におよぶ分断の時代の原因となります。五代十国時代に割拠した王朝・国家は、いずれも節度使や藩鎮が建国したものばかりだからです。
軍閥の自立を防ぐため、軍の縮小を進めた!
これを反省し、宋王朝では建国者である太祖(趙匡胤:在位960~976)により、節度使・藩鎮の解体が進められます。このとき太祖は、粘り強く各地の節度使や藩鎮と交渉を重ねた末に進めたといいます。宋王朝では皇帝の近衛兵である禁軍と、地方軍である廂(しょう)軍に軍事力は限定され、文官が主導する国制が整備されます。これを文治主義といい、宋王朝における政治原則として定着します。
したがって正解は、「軍閥の自立を防ぐため、軍の縮小を進めたから」となります。
宋王朝では軍事力を削減したこと、さらに唐王朝で権威を振るった貴族(門閥貴族)が相次ぐ戦乱で衰退していたこともあり、皇帝への権力集中が進みます。君主独裁体制が確立されるのです。
(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)