最強モンゴル軍の正体は「商人」だった!? 誰も知らない「すごい世界史」
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

最強モンゴル軍の正体は「商人」だった!? 誰も知らない「すごい世界史」Photo: Adobe Stock

モンゴル帝国はこうして生まれた

 1206年、モンゴル高原のオノン川源流近くで、諸部族の会合「クリルタイ」が開かれ、テムジンが全モンゴル部族の君主に推戴され、「チンギス・カン」と名乗ります。これがモンゴル帝国の始まりです。チンギス・カンは部族間抗争に終止符を打ち、ナイマンやホラズム・シャー朝を打ち破り、広大な領土を支配下に置きます。また、中国方面では西夏を滅ぼす直前に死去しました(在位1206~1227年)。

 後を継いだ三男オゴデイ(在位1229~1241)は「カアン(大カン)」を名乗り、金を滅ぼして華北を制圧。その一方で、甥のバトゥに西方遠征を命じます。

 バトゥと名将スブタイはロシアのキエフ・ルーシを崩壊させ、東ヨーロッパへ侵攻。1241年のモヒの戦いではハンガリー王国に壊滅的打撃を与え、別働隊はポーランドにも進軍して物資を略奪しました。しかし、オゴデイの訃報と兵站の問題により西進は中断され、西ヨーロッパはモンゴルの侵攻を免れました。

バグダード陥落、元朝の成立

 オゴデイの死後、短期間即位した長男グユクの後、従兄弟モンケがカアンとなり、弟のフレグに中東遠征を命じました。フレグはイランを征服し、1258年にバグダードを陥落させてアッバース朝を滅ぼしましたが、エジプト遠征ではマムルーク朝に敗れました。

 一方、もう1人の弟クビライ(フビライ)は雲南を征服し、南宋の攻略に着手します。しかし、長期戦となり、またモンケの弟への猜疑心から攻略にさらなる遅れが生じ、これに痺れを切らしたモンケは自ら軍を起こしましたが、その途上で急逝します。

 モンケ没後の帝位継承争いを制したクビライは「元」を建て、中国を統一(1276~1279年)しました。その後、東南アジアや日本への遠征を行いましたが、大きな成果は得られませんでした。

モンゴル人は何をして生きていた?

 さて、ここで問題です。

大モンゴル国を建国したモンゴル人の主産業は何か?

 モンゴル人といえば遊牧民であり、彼らの主産業は「商業活動」と言えます。したがって、正解は「商業活動」です。遊牧生活は農耕社会と比べて社会の維持が難しく、とりわけ穀物の確保は文字通りの死活問題でした(遊牧民の居住地は農耕に適していない土壌や気候であることが多いです)。このため遊牧民は古来より商業に従事(あるいは商業民族を保護)することで、穀物をはじめとする生活必需品を賄っていたのです。

 モンゴルの拡大は、「ユーラシア交易網の独占」を狙ったものと見なすことができます。

 まず、チンギスが征服したトルキスタンは、ユーラシア東西交易、とりわけシルクロード(「オアシスの道」)の中継点です。ここを足掛かりに、オゴデイの治世にバトゥが征西に向かったルートは、ステップロード(「草原の道」)に相当します。

 さらに、モンケの治世でのフレグの遠征は、シルクロードの制覇と見ることができ、最後にクビライはマリンロード(「海の道」)の制覇を狙ったものの、これは挫折したのです。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)