栗山 ところが、うまくいくときって何をやってもうまくいく。そういうときは僕が采配しているのではなくて、天の神様がやっているような感じがするんです。そうなるように、勝利の女神にこちらを振り向いてもらうにはできることはすべてやり尽くさないといけないと思っているんです。

 ああいう際どい判定の場面では、抗議しても判定が変わらないことも当然あって、そうすると変な間ができてしまうだけなので決断が難しい。ですから、微妙な判定でも絶対に変わらないと思って抗議しないケースもあるんですけれど、あのメキシコ戦のときは、誰かが背中をポンと押してくれたんです。

 そうやって上のほうから「行け」って言ってくれるときがあるんですね。僕がやっていないというのは、そういう感覚があるからなんです。

横田 そういうものがよい気の流れをつくっていくのかもしれませんねぇ。

「野球は無私道」の言葉から
連想されたお釈迦様の教え

横田 栗山監督にお会いする前は野球と禅が一体どう関連するのであろうかと思っていましたけれど、監督の本を読んでいて飛田穂州という人の言葉に「野球は無私道」とあると知って感動しました。そのとき、私が思い出しましたのが、白隠(はくいん)禅師の『遠羅天釡(おらてがま)』という書物の中に出てくる話なんです。

栗山 どんな話ですか?

横田 お釈迦様があるとき、一番弟子の迦葉菩薩に「どのような修行をすれば、大涅槃(悟り)に至ることができるか」と質問なされました。すると迦葉菩薩は「坐禅が大事だ」とか「戒律を守ることが大事だ」とか、思いつく限り答えるのですが、お釈迦様はすべて許可なさらなかった。

 そこで迦葉菩薩が「では、一体何が必要ですか」とお尋ねすると、お釈迦様は「ただ無我の一法のみ、涅槃に契うことを得たり」とお答えになった。つまり、私を無くすことだというんです。そこで、ああ、なるほど、こういうところで野球と禅の道が通じてくるのかと思いました。これは非常に大きな発見でございました。