カンテラを手にトンネル内を進むが、坑口や通気口から大量の煙が吹き込んできた。やむなく全員で線路の上に腹ばいになり、必死で煙を避けたが、枕木にしみ込んだ油が燃えはじめた。車掌は起き上がると、燃え上がる火を靴で踏みつけて消し、体を冷やしと何度も繰り返した。

女性車掌が戦後32年の
インタビューで語ったこと

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「全国主要都市戦災概況図」を筆者が加工 拡大画像表示

 同じころ、一部の乗客は赤坂見附方面への避難を試みていたが、どこまで行っても地上は大火災で進めず、戻ってきた。神宮前にある姉の家に滞在していた南部きみ(当時36歳)さんは、原宿方面には逃げられないと判断して青山一丁目方面に向かった。

「右手の方をみると火の海で、風上でものすごいうなり声をたてて火が地面を這うように近づいてくる。とても、原宿駅の方へは逃げられそうもない。(略)逃げる群衆の流れについて走った。表参道を左へ行き、青山の電車通り(青山通り)を青山一丁目の方へ走った。娘の手を放すまいと必死になった。すると、数頭の馬が猛烈な勢いで走ってきた。近衛騎兵の馬が、火におどろいて暴走したのである。目の前で、何人かの人が馬に蹴られて倒れた。そして死んでしまった(『東京大空襲・戦災誌』)」

 また満州国高官だった父とともに赤坂の山王ホテル(現・山王パークタワー)に宿泊していた武部健一(当時19歳)さんは、「(翌朝)赤坂見附の地下鉄の入口付近の路上には、多くの焼死体があった。昨日もしこちらの道を取ったら、われわれも死を免れなかったことを知った」と振り返っている。

 話を空襲下のトンネルに戻そう。四方を炎に囲まれた運転士、車掌、乗客らは地上への脱出を断念。煙が吹き込むトンネルに身を伏せ、一夜を明かして九死に一生を得た。しかし若い母親の腕に抱かれていた赤ちゃんがただ1人、煙に巻かれて窒息死してしまった。

 うなだれる女性車掌に、その母親は一缶の水あめを差し出し、「この子の代わりにがんばってね」と、逆に励ましたという。彼女は戦後32年が経過した1977年のインタビューで、この夜の出来事が「今も胸につかえている」と語っている。