1945年3月9日夜から10日未明にかけて行われた「東京大空襲」から80年を迎えた。この空襲で東京下町のほぼ全域、現在の東京23区の3分の1以上にあたる約41平方キロを焼失。100万人が家を失い、推定10万人以上が死亡した。第二次世界大戦中の空襲による日本人民間人死者数は約40万人、原爆投下の死者を除けば約20万人である。つまり通常の空襲による死者の半分が3月10日の東京下町で生じたことになる。当時、20歳だった人ももう100歳。当事者の証言、記憶は失われつつある。当時、東京唯一の地下鉄(現在の銀座線)沿線で暮らしていた下町の人々は、最悪の夜に何を目撃したのだろうか。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
92歳の前住職が語った
東京大空襲時の記憶

戦時中の地下鉄運営については、2022年の拙著『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(青弓社)に記したが、空襲当日の記録はほとんど残っておらず、全容の把握は難しい。
そんな中、ふと見つけたのが、正信寺(横浜市都筑区)の前住職石川京英(92歳)さんが、10年前にウェブサイトで公開した回想録「住職のこぼれ話」だった。
国民学校6年生(12歳)だった石川さんは3月8日、学童疎開先の宮城県秋保温泉から浅草に帰っていた。3月20日に東京都の中等学校の入学試験が予定されており、帰京中に空襲に巻き込まれた生徒が多くいたが、石川さんもその一人だった。
3月9日夜から敵機の接近を知らせる警戒警報が発令されていたが、日付が変わった直後、突如として空襲が始まり、浅草松清町の自宅(現在の雷門一丁目交差点付近)周辺でも火の手があがった。空襲警報が発令されたのは空襲開始後であった。「上野方面へ逃げるより、反対の雷門・吾妻橋へ避難したほうがいい」と判断した父に手を引かれた石川さんは、雷門通りを東に進んだ。

しかし、吾妻橋はすでに火に包まれ、松屋デパート(東武浅草駅)は避難者でいっぱいだったため、近くの小さな公園に留まった。
石川さんは「B29の轟音(ごうおん)、焼夷(しょうい)弾の爆音と燃え盛る炎やそれによって巻き起こった風のゴーゴーという音に包まれ、その中で木の枝を振り回し続けて3月10日の朝が薄暗く明けてきました。すぐ目の前にあったモルタル3階建ての建物が火の勢いをいくらか防いでくれたことが幸いし、何とか生きながらえることができました」と記している。
空襲が収まると緊張の糸が切れ、黒くすすけた顔を見合わせて笑い転げたが、火がくすぶっていた建物の窓ガラスが割れ、空気が流入したことで轟音とともに炎の塊になった。一家は驚いて逃げだし、寺院風建築で知られる浅草駅4番出入り口から駅に逃げ込むと、トンネル内を歩いて田原町駅から地上に出たという。