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今年も8月15日がやってきた。終戦から78年が経過し、当時10歳だった少年も今や88歳、当時の成人はほとんどが100歳以上になっている。総務省人口推計によれば2022年10月1日現在の78歳以上の人口は1509万人。さすが長寿社会、想像以上にご存命の方は多いのだが、夏休みに「祖父母に戦時中のことを聞いてみましょう」という宿題があった筆者の子どもの頃を思い浮かべるまでもなく、戦争を語り継ぐ人が年々少なくなっているのは事実である。戦時中の記憶と言えば硫黄島の戦いや沖縄戦、各地への空襲と艦砲射撃、原爆投下など、悲劇的結末を迎えた1945年の出来事を中心に語られることが多いが、本稿では80年前、1943年の鉄道と人々の暮らしを振り返ってみることにしよう。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)

「心身の鍛錬」「聖地巡拝」などを理由に
戦時下で温泉やスキーを楽しんだ人たち

 3年9カ月の太平洋戦争において、ちょうど折り返しとなる1943年は、戦局においても人々の暮らしにおいてもターニングポイントとなった一年だった。戦局は既に前年、空母4隻を失ったミッドウェー海戦、消耗戦を強いられたソロモン諸島をめぐる戦いで劣勢となっていたが、連合国軍はこの年になって本格的な反攻作戦に着手する。

 既に徴兵、召集あるいは軍属として動員された若者は多く、戦死公報が届いた家庭も少なくなかったが、それでもまだ多くの市民にとって戦争とは遠い海の向こうの話だった。大本営発表で始めて「玉砕」が用いられたのは1943年5月、大学生が徴兵対象となり「学徒出陣」が行われたのは同年10月、ほとんどの生活物資が配給制となったのは同年末のこと。この一年で生活は一気に戦争色を強めていく。

 その中で鉄道はどのように変わっていったのか、1943年の朝日新聞から見ていこう。まず1月14日付朝刊には「スキーの持込み許可制」と題したのんきな記事が載っている。記事によれば週末から休日にかけての旅行者は相当な活況を呈し、上越方面の週末の夜行列車はスキー客で非常な混雑が予想されるため、スキー板は持込承認証所有者に限り1人1組に限り持ち込みができるようにするという。

 太平洋戦争開戦前年の1940年4月に戦費調達を目的とした「通行税」が導入され、鉄道の運賃・料金が大幅に値上げされると、1941年7月に鉄道省は遊覧旅行や団体旅行のほとんどを禁止。また開戦直後の1942年1月と4月に、立て続けに運賃・料金が値上げされるなど、既に不要不急の旅行自粛が強く求められていた。

 とはいえ前掲の記事にもあるように、「心身の鍛錬」や「聖地巡拝」などの名目で、温泉やスキーを楽しんだ人も少なくなかった。熱海までの乗車券が発売停止となっても、その先、例えば名古屋までの乗車券を買って熱海で降りる、なんてことも行われていたという。