「型」を学ぶことは、歴史の中で生き残ったものを徹底的に真似るという営みだ。表面的に「型」を真似るだけでなく「型」ができた歴史的背景なども理解しようと興味をもつと、より奥深くなる。

型のない自己流は
独りよがりで他者の劣化版

『ドラゴン桜』の作者の三田紀房さんは、新人編集者の僕に、マンガは型で描くと何度も教えてくれた。そして桜木(編集部注/『ドラゴン桜』の主人公)も作中で繰り返し型の大切さを説いた。

「型」を身につけるという行為そのものが、観察に通じている。

 型を真似ていく中で、自然と仮説検証のサイクルが回り、解像度が高くなっていく。観察をしないと型が身につかないし、型が身につくと観察の精度も上がる。

 型を覚えるときは、はじめは愚直な暗記でいい。1つ1つの所作の意味を理解しようにも、理解するための概念をもっていない。ある程度、型を暗記して、自然に型を使えるようになり、解像度が高くなると、仕草や所作にも自分なりに考えが及ぶようになる。自分の考えや好き嫌いを排して始めた「真似る」行為から、自然と、自分の欲望や関心が湧き上がってくる。

 これは、ディスクリプションでも同じだろう。全てを言語化しようと試みる中で、「ここが重要だな」と思えるところが自然と見えてくる。

 こうして型を更新したときに現れたものこそが、「オリジナリティ」だ。逆に、型のないまま、自己流だけでたどり着くのは、大抵、もうすでにある型の劣化版だったりする。

 型を真似るというのは、集合知を真似ることだが、あこがれの人から習慣を真似るのも有効だと思っている。

 真似るという行為は、観察したことのアウトプットになる。観察がうまくいっているのか確認できるし、次はもっとうまく真似ようと思うと、観察自体もうまくなる。

 身の回りで誰を真似るといいのか。その人を選定するために、観察をする。真似るためのあこがれの人を探そうとするだけで、観察するポイントが増えていき、気づくことが増える。

 さらに、素直に教えを乞われて悪い気がする人はいない。迷惑かなと心配しても、意外と頼られると応えてくれる。社会は、自分から歩み寄ると優しかったりする。真似るために教えを乞うことで、人間関係も構築できる。