そして、自分に何が足りないのかもわからない。そんな絶望から、「真似る」は始まる。
真似ないというのは、自分の「できない」に向き合わなくていいやり方だ。採点できないテストを受けるようなものとも言える。だから、新人マンガ家に「真似る」ことを推奨する。
もちろん尊敬するマンガ家の作品を真似てもいい。簡単には真似できないはずだ。絵を真似るのは簡単だ。ストーリー、さらには思想まで真似ることができたら、その人はもはや新人ではない。表面的な具体を真似るではなく、その裏にある思想まで理解して真似ることができるのだから。
「型」を徹底的に真似て
普遍性を獲得せよ
そして、真似る対象は、必ずしも、創作物である必要はない。似顔絵だって、すごく立派な現実の真似だ。そもそも創作は、全て、現実の模倣である、という考え方もできる。
似顔絵とは、写真のような絵を描くことではない。その人の「らしさ」を見抜き、真似ることだ。印象を真似るというのは、簡単にはできない。たとえば、前髪が斜めになっている相手の特徴を目立たせて絵を描いてみる。
それは、「斜めの前髪」にこそ相手の「らしさ」があるという仮説だ。それによって、印象が似たか。その仮説と観察のサイクルを延々と繰り返す。もしも、真似ていなければ、次の観察は発生しない。
真似るとは、仮説を立てるという言葉と限りなく同義だとすら言える。真似るという行為は、終わりのない「仮説検証」そのものだ。
先ほどの似顔絵で、特徴をどこに求めるか。斜めの前髪か、眼鏡なのか。本当に似ているだろうか。自分の仮説を丹念に振り返り続ける。もし、何も真似ることなく、好き勝手に描いたとして、そこには改善がどこにもない。
この飽くなき仮説検証の中で普遍性を獲得しているものを、世間は「型」と呼んでいるのではないか。だとしたら、「型」をつまらないものと決めつけるのではなく、まずは徹底的に「型」を真似るのがいいのではないか。