ダロン・アセモグルや
デヴィッド・グレーバーに学ぶ

――本書では、「一隅を照らす」という言葉を引用されています。その目的の実現に向け、「最大の正のインパクトを達成する」という点で、慎さんの場合、長い間培ってきた金融業でのノウハウを生かすことになるのですね。大学卒業後に外資系金融機関に就職されたのは、将来を見据えて金融業での力を付けようという考えからですか。

 もともとの進路希望は、人権弁護士でした。大学生だった2001年に9.11(米国同時多発テロ)があり、その後にアフガニスタンとイラクで戦争がありました。当時はインターネットが始まって間もない時期だったのですが、それでもアルジャジーラ(カタールに本社を置くアラブ系テレビ局)がアフガニスタンなどで起きていることをネットで報道していたんです。

 子どもたちが爆撃にあっている映像を見て、これは絶対におかしいと思ったので、デモなど抗議活動に参加しました。でも、何も変わらなかった。

 当時読んでいた本の一つに、カール・マルクスの『資本論』があります。そこに書かれているように、社会は「下部構造」としての経済の土台の上にあり、制度とか法律とかの「上部構造」よりも、社会を改善していくには下部構造を変革する必要があるのではないかと考え直すようになりました。それで、弁護士ではなく、経済全般を学べる金融機関で仕事をしようと考えたのです。

 共産主義や社会主義は、仕組みとしてはうまくいかなかったわけですが、マルクスが社会や経済を分析したことの価値は落ちていないと思うんです。同じく長い時間が経っても、彼が影響を受けたフリードリヒ・ヘーゲルの思想がいまも学び続けられているのと同じだと思います。

『資本論』は、当時の英国の労働者の惨状などを詳細に分析しています。今日ではダロン・アセモグルも同じような分析をしています。同様の問題意識を持つ経済学者は多いのです。

 ダロン・アセモグルの最近の著書Power and Progress(邦訳『技術革新と不平等の1000年史』)では、技術進歩が起きた時に格差が拡がり、労働運動などの抵抗がないと格差は縮まらなかったことを、いろいろな事例を示しながら書いています。

 我田引水が好きな人たちは、アセモグルの主張を階級闘争の正当化に用いるように思いますが、彼は階級闘争とは言っていません。ただ、問題視していることは同じであると感じています。

――格差拡大という問題を解決するのは、革命でなく、改善であっていいということでしょうか。

 そうですね。基本的に私は保守主義者だと思います。エドマンド・バークが説く意味での保守主義者です。ラディカルに物事を進めるべき時はあるかもしれませんが、その過程で大勢の人が亡くなるようなことは間違っています。

 それに、極端なものはエラーの確率が高い。人間はそんなに賢くありませんから、やりすぎたりして変なことが起きるんです。漸進主義の良くないところもありますが、それでも基本的には少しずつ改善して進むことを私は選びます。

 ただし、会社組織のターンアラウンドになると、革命的な方法のほうが良い場合があります。特に経営陣の変更をしなければいけない時というのは、往々にしてすごいドタバタとなります。とはいえ、会社のターンアラウンドでは死人が出るわけではありません。

 一方で、社会機構のターンアラウンドや革命は死者がほぼ確実に出ます。社会と会社のターンアラウンドには決定的な違いがあり、私は社会変革に関しては保守主義者だと思います。

――ダロン・アセモグルに加えて、デヴィッド・グレーバー著『負債論』についても、本書では前向きに評価されているように読みました。

 大著なので、一言でまとめるのは憚られるのですが、お金の借り手を奴隷状態に陥れることがありうることが、金融が憎まれてきた理由なのではないかというのが彼の主張の1つです。奴隷商人が嫌われるのと同じような理屈です。一方で面白いのは、借りたお金を返済することは道徳だと皆がみなしていると書いてあることです。

 仏教教典『スッタニパータ』にも同じようなことが書かれています。不思議ですね。借金したお金を返すのは道徳だけれども、お金を貸すのは不道徳であるというのです。お金貸しもしくは金融は全体的に評判が良くない。なぜなのか。ちゃんと考えてみたいと常々思っていました。

 現時点で私が考えているのは、貸し借りが増えていくと次第にお金を返せない人が増えていき、そうなると社会が不安定になる。そのためにお金の貸し借りは教義によって禁じられ、禁じられた結果として忌み嫌われるようになったのではないかなということです。

 金融機関が誕生する以前の昔において、特にコミュニティの中で貸し借りができないというのは、貸し借りが仲間内の諍いの火種になるからではないでしょうか。かつてユダヤ教徒はキリスト教徒にはお金を貸しているけれども、ユダヤ教徒間ではお金を貸せないという戒律があるように聞いています。イスラム教も同様です。

 戒律ベースで生活する人たちには、生活の知恵だったと思うのです。その知恵が教義になり、ある時点で教条主義に人々が陥って、理由を考えなくなり、結果として身分差別みたいなものにつながったのではないか、というのが個人的に考えるところです。

――本書では、「友人にはお金を貸すな」という身近な話も書かれています。

 私の家庭では「人にお金は貸すな。人からお金を借りるな」、「どうしても人にお金を貸す必要があれば、あげろ」と教えられてきました。

*連載の第2回は、明日公開予定です。

慎 泰俊(しん・てじゅん)
1981年東京生まれ。朝鮮大学校および早稲田大学大学院ファイナンス研究科卒。モルガン・スタンレー・キャピタル、ユニゾン・キャピタルを経て、2014年に五常・アンド・カンパニーを創業。途上国における金融包摂に従事している。認定NPO法人Living in Peace、日本児童相談業務評価機関を共同創設。『ルポ 児童相談所』(ちくま新書、2017年)、『外資系金融のExcel作成術』(東洋経済新報社、2014年)、『ソーシャルファイナンス革命』(技術評論社、2012年)など著書多数。