違う国の言語構文を理解し、それを別の言語に置き換える表現力の源泉は、母語であるということを理解しておかなければなりません。

言語力とは、母語は違えど
共通の“意思を疎通する力”

 フランスの詩人ジャン・コクトーは昭和11年に来日した際、仏文学者の堀口大學の案内で大相撲をはじめて見学し、そのときの想いを母語で日記に残し、堀口がこれを次のように日本語へ翻訳しました(一部を抜粋)。

「力士たちは、桃いろの若い巨人で、シクスティン礼拝堂の天井画から抜け出して来た類稀な人種のように思える。或る者は伝来の訓練によって、巨大な腹と成熟しきった婦人の乳房とを見せている。(略)いずれのタイプの力士も、髷を戴いて、かわいらしい女性的な相貌をしている。頭の真中にのっかった油で固めた上向きの束ね髪、うしろは扇の形に広がって。浄めの塩を土俵に振りまいてしまうと、両力士は股をひろげ、両手を腿にあて、悠々と、力をこめて交互に片足ずつを踏みしめる。(略)不動の平衡が出来上がる、やがて足が絡み、やがて帯と肉との間に指がもぐり込み、まわしのさがりが逆立ち、筋肉が膨れ上り、足が土俵に根を下ろし、血が皮膚にのぼり、土俵いちめんを薄桃いろに染め出す」(『ジャン・コクトー全集〈5巻〉』[東京創元社]より)

 力士を「桃いろの若い巨人」と表現し、これをバチカンの礼拝堂の天井画に重ねたことで、鮮烈なる視覚イメージが伝わってきます。「不動の平衡」という張り詰めた空気から、一気に迫力ある取り組みへと描写が移り、力士たちが激しく当たる音やほとばしる汗が、まさに桃色の気と化して立ち昇る様が映し出されるかのようです。

イチローの「高校球児への指導」は何が凄いのか?部下が自ら動き出す「育て方」の極意『最強の言語化力』(齋藤 孝、祥伝社)

 画家でもあったコクトーの豊潤なる感性、そして翻訳した堀口の言語力と教養には敬服をするばかり、何度読み返しても品格のある美しい文章です。

 こうして考えると、言語力とは特定の国、地域の言葉や文化に限定されるものではなく、すべての人たちに共通する普遍的な力であることがわかります。日本語であれフランス語であれ、オランダ語であれ、人がどの言語を用いるとしても、誰もが各々の思考をつぶさに表現し、意思を疎通する力を持っているのです。