六大学にも忍び寄る言論封殺
難しい舵取りを迫られた田中総長
田中が早稲田の総長に就任したのは、31年6月、満州事変の直前だ。44年まで務めたが、田中が教授から、常務理事を経て総長を務めた時代は、大学内で学生の運動が抑え込まれ、研究や思想に対する統制が進むなか、15年戦争に入っていった時期とほぼ重なる。
「大正デモクラシー」と呼ばれる民主的な機運やロシア革命(1917年)が起きるなかで、共産主義と民主主義は知識人の関心を集めていた。その一方で、対抗するように国粋主義、天皇絶対主義を唱える保守勢力も力を強めた。
だが25年4月22日に治安維持法が公布され、左翼思想の取り締まりが次第に強まるなか、満州事変の勃発が日本を戦時体制へと一気に向かわせる。
大学でも「異論」に対する弾圧が強まり、進歩派とされた教授らへの攻撃や排斥が進んだ。その象徴が、トルストイに関する講演や著書『刑法読本』が非難され、京都帝国大学の滝川幸辰教授が免職となった滝川事件(1933年)だった。
共産主義やマルクス思想以外が弾圧された初めての例だった。そして東京帝国大学で長く天皇機関説を教えた美濃部達吉名誉教授への攻撃が2年後に起き、言論の自由の封殺が東京六大学で強まっていった。
田中は1876年、今の長野市に生まれ、東京専門学校(今の早稲田大学)政治科を卒業し、欧米に留学して経済と財政を専攻して学位を取得。母校の講師となり、1907年から教授を務めた。