美濃部達吉に津田左右吉
大弾圧が相次いだ理由

 研究や思想に対する統制の動きは、34年、政治経済学部教授の林癸未夫(はやし・きみお)の著書『国家社会主義原理』が、帝国議会で問題視された。治安維持法に違反する私有財産否認の著書ではないかとして、民政党代議士が政府に見解を質した。

 文部政務次官は「研究の範囲なら差し支えないが、国体観念の涵養に適当でない者であれば、処分しなければならない」と答弁。「早大に第二の滝川事件か」と報じられたが、それ以上の大事にはならなかった。

 文学部講師の帆足理一郎も似たような排撃を受けた。31年から個人雑誌として刊行している『人生』で、反戦の論陣を張っていたが、たびたび発行禁止になった。「戦争のために苦しめられる敵、味方の大衆を思い、国家が戦争をしないように国民は非戦論、反戦論を唱えるべきだ」などと主張していた。

 帆足は、哲学者でキリスト教を信奉しており、自らの考えを信念をもって書いていたが、反共雑誌『原理日本』などを足場に右翼勢力の中心だった蓑田胸喜らの攻撃の対象となり、検察も調査に乗り出した。

 35年の天皇機関説事件では、各大学の憲法講座が調査され、同調する講座は排除された。早稲田ではそれまで、天皇機関説が主流で、事件の当事者だった美濃部達吉も法学部で講座を持っていた。
 
 事件後、美濃部は講義を取りやめ、かつて天皇機関説を説いていた教授らは講義内容を変えたり、機関説を否認したりした。そして39年には、早稲田最大の弾圧事件、津田左右吉出版法違反事件が起きる。

 冒頭で紹介した「最後の早慶戦」が行われたとき、早稲田大学の内部では、このようなことが起きていたのである。次回は、大学を存続させるために奔走した田中総長の「胸の内」にさらに深く迫っていく。

(文筆家、元朝日新聞記者 長谷川智)