23年からは常務理事として高田早苗学長の下で手腕を発揮した。学者というより、大学経営の実務家と言ったほうがよかった。経営拡大と当局との融和路線をとった。

 田中は左翼の学生運動には厳しく対応し、学生による各種運動を調査・監視する調査課を設置した。このため総長就任にあたっては反対運動が起きたほどだ。

「早稲田四尊」と呼ばれる実力者で西洋文学者の坪内逍遥は、「平時なら総長の資格は第一に徳望、第二に学問への造詣と熱愛だが、経済難や思想難の時代には傑出した事務家の方が有利である」と、実務家田中への期待を表明している。

 総長就任当時、日本共産党が日本共産青年同盟の指導で大学ごとに細胞をつくる運動を進めていた。内務省の資料によると、左翼学生の検挙のピークはこの頃で、31年は早稲田が112人で最多だった。32年は140人の東京帝大に次ぐ92人、33年は東京帝大338人、早稲田176人で、この2大学が左翼運動の双璧だった。

「傑出した事務家」だった田中総長
統制の先兵に「宇垣軍縮」の余剰将校

 しかし、戸塚警察署による弾圧で早稲田の運動は次第に下火になった。滝川事件が起きたときには、全国各地の学生が支援する動きをみせたが、早稲田ではほとんど広がらなかった。検挙者も34年39人、35年12人、36年9人と減り、学生運動は抑え込まれた。

 早稲田で運動が下火になったのは、田中のこうした姿勢のもと大学当局が警察と連携しながら対応してきたことがあるが、治安維持法が公布されたのと同じ25年、陸軍の現役将校を学校に配属する法令が4月に施行されたことも要因として見逃せない。