第一次世界大戦後、世界的に軍縮が進み、日本では宇垣一成陸軍大臣による「宇垣軍縮」が断行された。その結果、現役将校が余剰となった。雇用対策と教育統制という狙いで、将校が学校に配属され、軍事教練が実施された。だがその後、時勢の変化に伴って大学内の異論を封じる“武器”となっていったのだ。早稲田には34年3月から、大佐の平野助九郎が配属されていた。
早稲田の建学の理念は、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」で、「三大教旨」と呼ばれている。最重要は、創設者の大隈重信が薩長藩閥の明治政府から政変で追放された経緯を踏まえ、政治から独立した教育機関を創ろうという「学問の独立」だった。
だが、平野は「模範国民の造就」に着目し、天皇中心の教えを信仰する模範国民を育てようと活動する。
天皇機関説事件後、政府は「日本は天皇中心の国家である」と宣言する国体明徴声明を出し、35年11月には同声明に沿って文部省に教育改革を断行する教学刷新評議会が設置された。
平行して教育現場では、天皇の御真影の掲示、教育勅語の奉読、紀元節(2月11日)や天長節(4月29日)など四大節の式典の徹底が打ち出される。
軍部・政府は、大学に配属している軍事教練の将校を統制の先兵と考えたのだ。
御真影と教育勅語謄本を
他校に先駆けて受け入れ
早稲田でも36年2月11日に紀元節奉祝会が初めて開かれ、天長節奉祝会や明治天皇の誕生日である11月3日の明治節には、田中が明治神宮に参拝して玉串料を納め、学生も参拝した。御真影と教育勅語謄本も同年受け入れた。
大学として最初の受け入れではないが、慶應義塾の受け入れは2年後で、大学全体から見れば早い決断だった。