
“鉄道王”と称された初代嘉一郎は、美術品の収集家でもあり、茶道にも深い造詣を持つ文化人だった。彼の没後、東京・青山の自邸跡に「根津美術館」が開館。その遺志を受け継ぐかのように、2代目嘉一郎もまた、美術と茶の世界に魅了された人物だ。幼少期から育まれた審美眼を生かし、美術鑑賞を「趣味」と公言しながら、東武鉄道のトップを務める傍ら、根津美術館の理事長も長年にわたって兼務した。
1983年4月23日号の「週刊ダイヤモンド」では、2代目嘉一郎が戦後の東武鉄道の発展と根津美術館について語っている。西南から始まった東京都の発展は、時計回りに広がり、やがて北東へと進んでいくというのが根津の見立てで、その“針”が指す方向にちょうど東武鉄道の沿線が重なっていることから、今は「東武の時代」と自信をのぞかせている。
また、根津美術館の収蔵品の中で特に愛してやまない作品について問われると、喜々として解説する様子が印象的だ。実業家としてだけでなく、真の趣味人としての一面もうかがえるインタビューとなっている。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
地下鉄への直接乗り入れが
戦後の東武の発展を生んだ

──根津さんは1941年に社長の仕事を始められてもう42年、ずいぶん長いですね。
ええ、やっているうちに長くなりました。
──こんなに長く続けてこられて疲れませんか。
一生懸命やって、夢中できているんですけれどもね(笑)。
──社長になられたときは何歳ですか。
41年の7月ですが、30歳前後ですよ。
──社長になってから、いろいろ思い出があるでしょうね。
それはいろいろありましたね。第一、戦争で空襲を受けて、荒廃したわけですよ。その頃は今のように事業グループというか、多角経営をやっていません。鉄道とバスだけでしたからね。それが空襲を受けて非常に荒廃をしたわけですよ。
それから終戦を迎えた。戦前はいわゆる労働問題というのはあまりなかったでしょう。戦後は団体交渉だとかストというものを経験したわけですね。その当時、私の父は長い間社長をしておったけれども、労働問題を知らなかったろうと思います。
戦後は組合の了解を得て会社の発展を図る努力をしてきたんだけれども、戦後の大きな特徴は多角経営ですよ。戦前は鉄道、自動車だけだった。戦後はグループとして発展して、今東武事業団は81社あります。グループとして発展しつつあるということが最大の特徴ですね。
鉄道としての特徴は、62年に北千住で営団地下鉄と相互乗り入れをやったことです。それまでは、大手私鉄というものは、ほとんど山手環状線のところで止まっていたわけです。そのために私鉄沿線の発展が遅れていたんですよ。
どういうことで都心まで大手私鉄が達することができるかということが課題であったんですが、最初は自分で建設して都心まで入れるということを大手私鉄が言ったわけです。しかし、それには東京都や運輸省の反対がありましてできなかったんですが、今から約21年前に営団地下鉄と直通乗り入れをするという方式を運輸省で決めてくれたわけです。その最初の乗り入れが東武鉄道の北千住なんです。