堤義明西武鉄道社長
 今回は「週刊ダイヤモンド」1987年7月18日号に掲載された西武鉄道グループの元オーナー、堤義明(1934年5月29日~)のインタビューだ。堤の父親は、一介の不動産業者から企業王国・西武の基盤を固め、衆議院議長を務めた堤康次郎である。康次郎は、2女5男をもうけたが、長男の清(元近江鉄道社長)、次男の清二(元西武百貨店社長)、三男の義明は異母兄弟。義明の生みの親である石塚恒子は康次郎の正妻ではない。そんな複雑な事情もあり、義明は小学校時代、いくつかの家庭を転々とする。

 一方で、長男・清は、父に逆らい廃嫡され、次男・清二もまた、父の生き方に反抗を続けた。その結果、大学2年生の義明に西武グループ総帥のレールが敷かれることとなる。1964年の康次郎の死を機に、義明は28歳で西武グループを継ぐ。71年の父親の七回忌に、清二と鉄道、観光、不動産部門と流通、製造部門の事業分離を行い、父親の死後10年たった75年ころから事業展開を本格化する。父から譲り受けた経営プリンシプルと、時価12兆円(当時)といわれた全国に広がる膨大な土地をバックに、ホテル、スキー場、ゴルフ場といった、大規模リゾート開発に手腕を発揮していったのである。

 インタビュアーは、精神科医でノンフィクション作家の野田正彰。精神病理学、文化人類学、社会学が重なる分野を研究する比較文化精神医学を専門とする野田らしく、堤の心の内面にまで鋭く切り込んでいる。義明も、幼いころから一方的に自分を試し続ける父との緊張関係に、自己を抑圧することで懸命に耐えた様子を赤裸々に語っている。絶対君主である父の要求と指示をすべて正しいこととして受け入れ、生真面目に、ひたむきに努力を続け、この2代目経営者は西武王国に君臨する存在となった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

親父との食事は緊張と苦痛で
まるで味がしなかった

1987年7月18日号
1987年7月18日号より

 私は、小学校に入ると同時に母親と弟たちと別れて、東京の目黒の父親の家に引き取られたんです。

 親父の事業は、土地を買って電気と上下水道を通し、道路を造って住宅地にするという宅地造成業です。東京都内の高級住宅とか箱根や軽井沢の別荘分譲。だから、経営不振の武蔵野鉄道や今の西武鉄道を引き受けたのも、もともとは鉄道経営に興味があったのではなく、鉄道沿線の土地を買いやすいと判断したからです。

 目黒の家というのも、大きな古い屋敷を宅地造成している現場。親父は、私に「端を持て」と言って、図面を広げて現場監督のように指示していた。それが親父の最初の記憶ですね。小学校以前は、親父の姿どころか、どんな生活だったのか記憶が全くない。おふくろに甘やかされたんでしょうが、どこで育ったかも覚えてない。

――小学校以前には父親像が全くない。次にいきなり強い父親が現れて、お母さんと別れてしまう。悲しい思いや疑問を持ったでしょう?

 そんなこと考えませんよ。人間の小学校までの記憶というのは、大きくなってから、大人たちにお前はこうだったと言われて、自分で作り上げるものでしょう。小学校に入ってからは、おふくろとの関係は切れて、親父にいろいろたたき込まれたというイメージがあるだけですね。

 目黒には小学校3年までいました。親父には厳しくしつけられました。余計にしょうゆをかけたといっては怒られ、果物は子どもの食べるものじゃないと言われ、絹の布団もぜいたくだと使わせなかった。親父と飯を食うというのは、ものすごい緊張があって、苦痛そのものでした。親父が亡くなったのは私が29のときですが、親父との食事では、会話に全神経を集中させてたから、最後まで味なんかしなかった。