そもそも早川が鉄道事業と関わるようになった背景には、東武鉄道グループをはじめとする根津財閥を築いた“鉄道王”、根津嘉一郎の存在がある。
早川は早稲田大学卒業後、政治家を志して後藤新平の下で書生をしていたが、後藤が南満州鉄道(満鉄)の総裁となったのを機に、満鉄に入社。その後、後藤が鉄道院総裁に就任すると、満鉄を辞職し鉄道院に入局した。鉄道院では、一から鉄道のことを学ぶために、新橋駅の切符切りから始めた。そんな中、郷里である山梨の先輩である根津と知り合う。根津から佐野鉄道(現在の東武佐野線)の再建を任され、わずか半年で成功させると、高野登山鉄道(現在の南海高野線)支配人に推挙され、こちらも2年あまりで経営を立て直した。
こうした経験から、政治家でなく鉄道の世界で身を立てる決心をした早川は、根津の下を離れ、最新の鉄道の状況を研究するべく欧米各国を訪ねるのだが、そこで出合ったのが英国の地下鉄だった。2年間の現地調査を経て帰国すると、苦難の末に東京地下鉄道を実現させた。東京地下鉄道の取締役には根津も名を連ね、後に社長に就任している。
その早川が、「ダイヤモンド」1936年4月21日号で、根津に関する人物評を寄せている。早川によると、根津はまれに見る天才であって、平凡人の常識で評価すべき人物ではないという。当時、根津はまだ存命だが、歴史に名を残す大偉人となるには、巨万の富を全て散じて死ぬかどうかにかかっているとも言う。
根津は鉄道事業以外も、日清製粉などの製粉業、富国生命保険などの保険業、ビール醸造などさまざまな事業に手腕を振るう一方で、「国家の繁栄は育英の道に淵源する」との考えから、教育・文化事業にも力を入れた。日本初の旧制7年制高等学校である武蔵高校(現在の武蔵大学)を開校したのはその一つだ。
また、根津は骨董品のコレクターとしても知られ、若い頃より世界中から幅広く古美術品を収集した。早川はこうした根津の古美術品の収集について、「所有欲」「征服欲」を満たすためと分析しているが、国宝に類する貴重な古美術品が欧米に流出していくこと危惧し、一種の使命感としての収集だったといわれる。そのコレクションは根津の死後、その遺志を継いで設立された根津美術館で一般に公開されている。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
天才を平凡人が評しても
正鵠を射たものにはならない
根津氏に関しては、人物的にも、あるいは性格的にも、評論をなす人がたくさんある。しかし、それらの評には当たっていないのが多いと思う。
根津氏は全く天才的の人である。普通の平凡人ではない。その根津氏を平凡人が、自己の性格、経験等によって評論するのだから、正鵠を射ないということも無理がないのである。
過去の人を批評するのだと、例えば、豊臣秀吉にしても、徳川家康にしても、後の時代の人がいろいろと考えて、その人物を劇的につくり上げる。そして、いかにも面白おかしく、いかにもそうであったかのように勝手に言うことができる。実際にまた、そうであったかのように思われてもいるのである。
しかし、現在に生きている人を評論するのには、よほどその人に接近していて、その人の全てをよく理解している者でなければ、到底その評論をなし得ない。評しても、うがったものにならないのである。
私は、根津氏と同郷であり、同郷の先輩として、ごく若いときから接近してきた。その接近の仕方は付かず離れずで、時には、その懐の中にも入れば、時にはまた、遠くから離れて第三者として客観的に見ることもある。だから私には比較的よく分かっているつもりである。もちろん、私とても天才人でないから、正しい評論ができるかどうか知らないが、鹿を追う猟師は山を見ず、灯台下暗しということではなしに、氏を評してみることにしよう。