大川 博東映社長
 東映の実質的な創業者である大川博(1896年12月30日~1971年8月17日)。そもそも大川は、鉄道高等官(今で言うキャリア官僚)の制服に憧れ、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)を卒業し、中央大学法学部を経て鉄道省に入省した、バリバリの鉄道官僚だった。

 22年間、鉄道省に奉職。特に経理畑を歩んだ大川は、1940年、鉄道同志会の夏期講習会で「改正税法と会計の処理」という講義を行う。その際、たまたまそれを聴いていたのが東京横浜電鉄(現東急電鉄)の社長、五島慶太だった。部課長数人を連れて講習会に出席していた五島は、大川の能力を認め、東急電鉄にスカウトする。度重なる勧誘の末に、2年後、大川は東急電鉄への入社を決めた。

「ダイヤモンド」1962年7月23日号~8月20日号の3号にわたって、大川の談話記事が連載されている。「わが転機」と題された連載では、その名の通り、大川が“人生における転機”について語っている。言うまでもなく、将来を嘱望された官吏(国家公務員)から民間へ転出したのが一つ目の転機である。そして、東急電鉄から東映へ、つまり鉄道から映画というまったく畑違いの業界に移ったのが第二の転機だという。

 東急電鉄は、沿線開発の一環で映画館を経営する一方、映画製作にも進出しており、第2次世界大戦後の49年に映画配給会社の東京映画配給(現東映)を設立していた。もっとも当時の東映は大赤字で、大川によれば「世にも哀れな超ボロ会社だった」という。誰も社長のなり手がおらず、東急電鉄の専務だった大川が、51年に東映社長に就いた。難物中の難物である東映の社長となることは、「ちょうど、おねしょをした子どもが、布団をしょわされて、家の外に放り出されたような形であった」と大川は、この記事の中で語っている。

 全3回の連載を、前後編の2回に再編集してお届けする。前編は東映社長に就任するまでの経緯である。後編では、業績不振だった東映の再建に関する話と、テレビの登場で斜陽化が始まっていた映画産業の未来について、大いに語っている。つまり、60年代初頭に日本の映画産業が直面していた転機こそが、大川にとっても“第三の転機”というわけだ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

二つの転機をもたらした
五島慶太さんの知遇

1962年7月23日号~1962年8月20日号より1962年7月23日号~8月20日号より

 “過去にとらわれず、未来に憧れずただただ現在を努力によって生き切れ”

 この言葉は、私が愛誦する座右銘の一つである。

 私は、この言葉を日常の心構えとし一刻もゆるがせにしないように努力しながら、今日までを歩いてきた。

 わが転機を語れということだが、現在において、常にベストを尽くそうとする者にとっては、毎日毎日が転機といえるのではないだろうか。

 歴史学者は、歴史の流れを、後になって幾つかの時代に分けることができるが、実人生を生きる者にとっては、不断の連続があるだけだと思う。しかし、そういう論議はともかくとして、私の半生を振り返ってみると、私にも常識的に考えて転機と呼べるようなものが二つある。