「おーい、まだ全ての骨を収集しているわけじゃないぞ。俺も連れて帰ってくれと訴えていたんです」
と収集団の1人であったKさんは涙声になった。
アッツ、キスカの両島に、大本営が日本軍を上陸させることを決めたのは昭和17(1942)年5月である。アメリカ軍がアラスカを経てこの地域(アッツ島はアメリカ領)を利用して北海道上陸を目指すことを恐れたからだ。
北海道の部隊が送られることになったが、兵士たちは隊列を組んでいるときに、奇数列はアッツ、偶数列はキスカといった具合に簡単により分けられていった。たまたま偶数列にいたからキスカ配属となって命拾いし、奇数列にいたら玉砕していましたと述懐するのである。
「軍隊というのは、言い方を変えれば『運隊』と呼ばれるところです。私は運が良かっただけなんです」
「戦死した仲間の顔です。一緒に行った連中と死んだ仲間の名を大声で叫びましたよ」
と真剣な表情になった。20歳を越えたばかりの青年たちが兵士として生を閉じていく。生き残った者も生涯、戦場体験を引きずっていくのだが、その心理的傷がこういう形で表れるのではないか、と思えるのだ。
こういう話もある。私はこれまで3000人を超える数の戦争体験者に話を聞いてきた。インパール作戦に参加した京都の中小企業経営者(元下士官)は戦場での体験を話しているときに、いつも右手を上着のポケットに入れて動かしていた。太平洋戦争で最も愚かだったと評される作戦で飢えと疲労で次々に亡くなっていく戦友の話になると、その手は一層激しくなる。ポケットに数珠を入れて祈りながら話しているのだ。
「水、水」とうめきながら死んでいった仲間の姿が浮かんでくる。いや部屋の中に、「白骨街道」で倒れたはずの彼らが現れるのだ。その像を慰めているのである。
出征した兵士たちが夢枕に
ちょうどその時刻に戦死?
さらに話を進めよう。兵士たちが夢枕に立って、「おっかさん、死にたくないよう」といったとか、出征した息子がまるで幼年時代に戻り、母親の布団に潜り込んできたといった話は枚挙にいとまがないほどだ。そういうときに、のちにわかることなのだが、そうした兵士たちは大体がその時刻に戦死している。