コメ価格が3倍に高騰!革命前夜の「米騒動」を収めた総理はなぜ殺されたのか写真はイメージです Photo:PIXTA

いま、SNSでは令和の米騒動と叫ばれている。もちろん、大正7年の米騒動にかけているわけだ。全国各地で群衆が米屋を襲い、軍が出動するほどの混乱に至ったこの社会危機を収めたのが、当時の内閣総理大臣・原敬である。政府主導で食糧流通を整える「米穀法」を施行し、混乱を沈静化へと導いた原。その手腕は高く評価されていたが、わずか半年後に暗殺されてしまう。なぜ、国を救った総理は殺されねばならなかったのか?※本稿は、保阪正康『戦争という魔性 歴史が暗転するとき』(日刊現代)の一部を抜粋・編集したものです。

庶民の食卓から米が消え
妻女たちが起こした米騒動

 庶民の生活、意識の変化を確かめるには、大正7(1918)年7月から始まった米騒動を見ていくと実態がわかりやすい。この頃の米不足は凶作とか不作といった理由からではなかった。「急速に発展した日本資本主義の矛盾の所産」(『歴代内閣・首相事典』鳥海靖編)と言ってもよかった。

 第1次世界大戦のさなか、日本の輸出は急激に伸び、それにつれてインフレ状態になり、勤労所得者や自営業者の実質賃金は目減り状態になった。逆に米が高騰を続けることに庶民の苛立ちが募っていた。

 大正5(1916)年には1石(約180リットル)あたり13円90銭であった。翌6(1917)年には21円50銭、そして7年7月には41円6銭にまで上昇していた。経済上の分析によると、この上昇は極めて人為的であった。つまり農業人口の減少に加えて、米穀商が買い占め、売り惜しみなどで利益を得ようとしていたのである。

 あえて指摘すればシベリア出兵(編集部注/「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに日米英仏連合軍が共同出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争)などの軍事政策に呼応するための軍による米の大量買い付けなども理由とされた。庶民は食卓に米を見ることができない状況にもなっていったのである。