津田が総長就任を固辞
島田総長就任で甦った「在野の精神」
1946年6月、戦後初めての総長選挙が行われ、当選したのは津田だった。津田は一審で禁錮3カ月の判決が出され、その後、控訴。44年11 月、時効により免訴となっていた。決選投票では59票を得て選任されたが、岩手・平泉に疎開していた津田は、73歳の高齢と研究に専念することを理由に再三の要請を固辞した。
すぐに再度の総長選があり、当選した商学部教授の島田孝一は、総長就任後、「校友諸君に望む」という寄稿文を発表し、「あらゆる部門で民主主義化を図る。社会は私学の長所を認識して欲しい。私学は物的、人的に欠如する面があるが、自由主義が満ちている」と強調した。政治経済学部に新聞学科を創設し、ジャーナリズム教育を強化した。
戦時中追放された社会主義的、自由主義的教授らも復帰した。象徴は米国に亡命していた大山郁夫の帰国だった。政治学者で、吉野作造らと大正デモクラシーの論客となった。27年の労働農民党委員長就任をきっかけに教授を辞任し、32年に日本を離れていたが、47年10月に帰国、翌年4月に政経学部教授に復職した。
帰国翌日、高田馬場駅に到着したとき、歓迎する学生が大山の乗った車に殺到し、「駅周辺は突如として興奮のルツボと化した」と当時の早稲田大学新聞は伝えている。
その後も、OBで初の首相に就任した石橋湛山、野党社会党委員長の浅沼稲次郎らの存在が早稲田らしさの復活を象徴した。
(文筆家、元朝日新聞記者 長谷川智)