新庄部長は「現場にそぐわないDXを無理に押し付けてしまっていた」と当時を振り返る。日々業務に対して真剣に取り組んでいる現場の社員がDXに期待するのは、無価値な作業を減らし、価値ある仕事に集中できるようになることだった。この反省から、従来のような押し付けではなく、現場の実際の課題を今あるものを活用しながら実践的に解決していく、「現場駆動型」のDX推進へと大きくかじを切った。

 この方針転換には他の背景もある。DXのCoE(Center of Excellence、中核組織)であるデジタル戦略部は、当時20人にも満たなかった(現時点では約50人)。一方で、同社は世界約180の国と地域でビジネスを展開し、従業員数はグローバルで5万人を超える。こうした体制において、CoEが船頭として機能しつつ、現場の課題は現場の社員自身が解決していく現場駆動型DXは合理的だったのである。新庄部長は「現場の課題を自分たちで解決できるよう、社員の成長を後押しすることが、CoEに求められる役割だ」と話す。

 現場駆動型DXを実現するために、社内に蓄積された大量のデータを、誰もが使いこなせるように整えることに着手した。「難しいデータ解析は不要。目的を整理して必要なデータをそろえるという考え方の下、データが現場の武器になることを目指した」と新庄部長は語る。全社員が当たり前にデータを使って課題解決できるようにするという信念を、同社は「データ分析の民主化」と呼ぶ。

1年で4000人超が受講したデータ分析研修プログラム

 この「データ分析の民主化」のために必要となるのが、社員教育だ。新庄部長は教育についても「現場への押し付け」を否定する。同社では、現場に山積する「ビジネスの課題」を研修のテーマに据え、社員自らがその課題を解決できるようにすることを目指した。

 しかし、教育体制の確立に至るまでにも試行錯誤があった。19年に実施した当初の研修では、社内から約20人を集め、PythonやSQLのプログラミングが中心の短期集中講座を提供した。しかし、この規模では1回20人・年2回が限度で、「全社員がデータ分析できるようにする」という目標とは乖離していた。また、研修内容は専門性が高かったため、修了した社員は専門技能を身に付けることができたものの、一般社員との意識の隔たりを生んでしまった。

 その後、新型コロナウイルスの感染拡大の状況も踏まえつつ、より多くの社員が受講できるように研修をオンライン化した。Excelの作業に日頃苦労しているような「普通の社員」を念頭に、内容も初心者向けとして、プログラミングの知識がなくてもデータ分析が学べるノーコードツールも積極的に取り入れた。この方針転換にも、「簡単過ぎる」「難し過ぎる」「もっと実践的な研修がいい」など多様な反応があり、それらを参考に改良を続けていった。

 このような試行錯誤を経て整えられたのが、レベルや目的別にステップアップできる現在の教育体制だ(図2)。まず、「データサイエンス入門」として初心者向けの基礎講座を用意。ここでノーコードツールを使いこなせるようになると、次に「データ使い」としてのスキルを身に付ける研修に進む。ここで実施される「データ分析官ブートキャンプ」では、社内の製造・マーケティング・開発各分野の実データを扱いながら、課題解決の方法を実践的に学ぶ。ここまでが一般社員領域だ。

 これより先は、データサイエンティストの領域だ。「データ分析見習い」はデータ分析のOJT(職場内訓練)を通じて実際の業務課題を自身で解決する経験を積んでいく。その先にはデータサイエンティストとして「独り立ち」して、「棟梁」として指導的な役割を果たす道も想定されている。しかし、同社がこの研修で目指しているのはあくまで、「普通の人」が一人でも多く「データサイエンティスト見習い」のレベルになっていくことなのだという。

 実際、スキルを身に付けた社員の数は大きく増えていった。23年時点で、「データサイエンティスト見習い」に相当する人材は社内で約406人に上った。24年には、その年だけで研修受講者が4000人を超えた。ヤマハ発動機の国内従業員数である約1万人のうち、3割以上が何らかのデータ分析研修を受講したことになる。

「現場主導」「全社横断」を可能にした企業文化

 特定のデジタル人材が必要となった場合は、ヤマハ発動機でも外部のコンサルティングや専門家の力を借りることが当然あるが、簡単な”現場の課題”はなるべく社員たち自らが知恵を寄せ合い解決するという同社が長年培ってきた文化も活かされている。「ビッグデータを駆使して誰も気付かなかった1%の課題を発見するより、仕事の99%を占める“現場の課題”の解決を優先する」という割り切りもそこにはあった。結果、「現場のデータサイエンティスト」が育っていった。

 デジタル戦略部では、「仲間づくり」も重要と考え、DXに興味を持った社員同士が自然につながりを持ち、部署横断でノウハウ共有が進むように促した。各部門で自然発生的にDX推進の中核チームが生まれ、それぞれのチームが「現場CoE」のような役割を担い、これをデジタル戦略部がサポートすることでネットワークも広がっていった。