真珠湾攻撃で「清々しい朝」「聖代に生まれた幸せ」
他校に先駆け「国防学」講座開設
その小泉が変わったのは日中戦争の頃からだ。
経済学部ゼミで戦争に関する研究をしてきた名誉教授、白井厚は、『太平洋戦争と慶應義塾』などの著書で戦時中の小泉の変化を明らかにしている。
日中開戦直後の1937年10月、塾長として、パンフレット『忠烈なる我が将兵-慶応義塾々生諸君に告ぐ-』を配布し、皇軍将兵の忠烈を讃え、中国に鉄槌を下す徹底的な勝利を願い、「もしも戦局拡大して国家が諸君を戦場に要するの日至らば、直ちに起つて飛丸の下に進み、諸君の忠烈決して今の将兵の忠烈にゆずらざるべき…」と主張した。すでにこの時期から早くも学徒出陣を期待しているかのようだと、白井は記している。
41年12月の真珠湾攻撃以降、好戦的な姿勢はさらにはっきりしてくる。
開戦に際して「この日ほど清々しい朝はなかった。聖代に生まれた者の幸せ」と学生に訓示を与えたとされ、「開戦以上は勝つために努力をするのは日本国民として当然」という論理で戦争協力を訴えた。
他校に先がけて「国防学」の講座を開講し、大学の正門に衛兵を建て、マフラーを禁じ、坊主刈りを命じる断髪令も出し、自ら主導して軍事色を強めていく。雑誌や新聞の文章では「いかにして米英を撃墜すべきか。明白で平凡である。ただ戦うということだ。勝つ日まで戦うこと、ただこれのみである」
「この戦争に中途半端な解決はありえない。これを覚悟しなければならない。米英人は日本の絶滅を唱えている。地を替えれば私も同じことを唱えるだろう」と激しい。
1945年にドイツが降伏した後も「ドイツが単独講和をしようがしまいが、そんなことを考えずにただひたすら沖縄の敵に突撃すべきだ。そこに勝利の道がある」と絶叫調になっている。