また、政元は7歳で家督を継いだわけで、現在で言えば小学1年生くらいということになります。
当然ながら細川一族の代表ではあっても、この年齢で実質的に自ら政治を行うことはできません。
すでに出仕はしていましたが、元服するまでには数年がかかり、細川成之(細川阿波守護家当主)や細川政国(細川典厩家当主)といった人物が支えるというような体制を取らざるを得なかったわけです。
このような状況について、政元自身は良しとしていなかったのではないか、と推測できます。
優秀すぎる若殿と
守旧の老臣との軋轢
政元は、父の勝元に「聡明丸」という幼名をつけられています。そして「この子がいたら細川氏はずっと安泰だ」と安心されたという話が残っているくらいですから、その言葉を信じるのであればかなり優秀だったのでしょう。家督を継承した際、果たして自分はどうするべきかといったことを、幼い政元なりに考えたのではと思われます。
しかし、政元が考えたことについて、周囲の大人たちは「以前からのやり方・慣例と違う」と指摘するわけです。大人たちからすればよかれ、もしくは当然と思っての発言ですが、政元からすると、父に期待されて跡を継いだ自分の考えにもかかわらず、周囲の連中によって否定されたと感じることが多々あったはずです。
政元は「どうしたら自分の考えを実現し、形にすることができるのか」を考え、その結果として、従来とは違う方法を取らなければ自分の目的は達成できないと気づき、そのような考え方・やり方が身についてしまったのではないでしょうか。
つまり、賢くて頭が回った人が、あれこれ考えた結果として、当時の人々の感覚からすればちょっと変わった、常識外れの振る舞いをするようになったのではないかと思われるのです。
単に世をすねてひねくれただけとも考えられますが、その後の政元の行動をみれば、やはり何らかの意図を持って行動したと考えられます。
オカルティックなエピソードについても、この文脈で理解することができます。単純に言えば呪術や超能力が好きだった変人ということで話を終わらせることもできます。
それはそれでひとつの捉え方であり、従来の細川政元を評価する基軸は実際にそうであったでしょう。しかし、ただオカルトが好きだったからという説明では片付けられない点があります。