オカルト発言に隠された
政元の“政治的な意図”
たとえば延徳3年(1491)の頃なのですが、1人目の養子(後の細川澄之)を取るという話になった後、政元は「空を飛んで関東へ行く」と言い出します。北陸経由で越後国まで行き、そこから伊豆国のほうに下っていって、それから東海道を通って帰ってくるつもりだったらしいのですが、結局越後国で「ここから先へは行ってはいけない」と言われて帰って来る、ということがありました。
このようなエピソードに触れると「政元は勝手な思いつきで飛んでいった」ようなことをよく言われるのですが、政元は何も考えずに空を飛んで関東へ行こうとしたわけではなく、その振る舞いの背景には政治的な意図があったように見えるのです。
越後国から回ろうとしたのも、鎌倉府のナンバー2である関東管領・上杉氏がこの地にいたため、彼らとの関係性を構築しようとする意図があったはずです(編集部注/関東管領・上杉顕定の実父は越後守護だった)。
実際、政元が関東へ行くのを諦めたのは、政知(編集部注/足利政知)が病気で亡くなってしまったためとされます。
同じように修験道への傾倒についても、当時の修験道のあり方や、それに関わることのメリットやプラスがあるかどうかについて考えた方が、より正確に政元という人物について理解することができるでしょう。
国境を越える手段を得るために
修行者へ接触していた?
たとえば、修験道の修行者たちは境界を越えることができる人々だった、という説明があります。
日本では古代以来、全国を66の国に分け、国ごとに国司や守護を置き、国家として支配を行ってきました。この各国の境界は支配の単位となるものなので、室町時代においてもそう簡単に越えられるものではありませんでした。
この境目は一度戦国時代に壊れて曖昧になり、また江戸時代になると国ごとに藩が置かれて、復活あるいは再編成されていきます。
その意味で戦国時代は地方支配の観点からすれば、非常に特異な時代だったと言えます。しかし室町時代のような国の境目がはっきりしていた時代に、宗教的だったり産業的だったりする理由によって特別に境目を越えられる人もいました。修験道の修行者たちもそのひとつで、彼らは修行と称して尾根筋を走り回ります。