デスノートかよ!「呪いのお経」で恐れられたオカルト武将の正体写真はイメージです Photo:PIXTA

室町時代、応仁の乱を経た不安定な世情で絶大な権力を握った武将、細川政元。彼のオカルト政治をいまになって見返すと、時代の先を行く独自性に満ちているとも言える。その大胆さゆえに最終的には身を滅ぼしてしまうのだが、彼の革新性とカリスマ性は我々現代人も見習うべき部分がある。政元を再評価するともに、時代を先取りしすぎた男の人生を教訓として学んでほしい。※本稿は古野 貢『オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』の一部を抜粋・編集したものです。

政元のオカルト政治のルーツは
「呪詛のお経」にあった

 政元のオカルト的性格の実態に近づくにあたっては、司箭(編集部注/政元の師匠)のことについて注目すると役に立つでしょう。

 この人はもともと宍戸家俊という名前で、その素性が『宍戸系図』という史料に載っています。

『足利季世記』(編集部注/1487~1571年の畿内の出来事を描いた、作者不明の軍記物)で政元に言及している部分の最後の方には、「あるときは経を読み、多羅尼をへんじければ、見る人身の毛もよだちける」とあります。

 ここで出てくる多羅尼経というのは少し変わったお経で、呪詛のために使うものです。当時の人々は、呪詛のために使うお経があること、そのような性質を持つ言葉を大声で唱えるのは相手を呪おうとしているのだ、ということを知っています。

 ですから、突然目の前でやられたら、普通は怯えてしまうでしょう。呪文を唱えながら「こっちを見ろ」みたいなことを言われたら尚更です。

 では、誰もが呪詛のお経を唱えることができるのでしょうか。そうではありません。現代のようにいろいろな情報で溢れている時代ではないのです。いわゆる知識や教養をより高いレベルで持っているのは僧侶、つまりお坊さんだとされていました。

 もちろん、公家なども文字の読み書きはできるわけですが、僧侶は人が亡くなる時にあげるお経を修行によって身につけています。人々から敬意を向けられるにあたって、この死後の世界と関わりを持つことが大きかったのではないかと考えられています。