写真:戦国時代,甲冑写真はイメージです Photo:PIXTA

戦国時代が始まるきっかけとなったとされる「応仁の乱」や「明応の政変」。それぞれの事件を引き起こしたのは、山名宗全と細川政元だ。身分秩序を重んじる時代から、群雄割拠、下剋上、実力主義の戦国時代へと移り変わる過渡期のキーパーソンたちはどのような価値観を持っていたのだろうか。本稿では、呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)の一部を抜粋・編集して紹介する。

山名宗全の逸話「例という文字をば、向後(きょうこう)は時という文字にかえて御心得あるべし」

 日本史上最大とも言われる大乱、応仁の乱(一四六七~七七年)。全国の大名は東軍と西軍に分かれて争った。東軍の総大将は細川勝元。そして西軍の総大将は山名宗全(やまなそうぜん)である。

 宗全に関しては有名な逸話が伝わっている。応仁の乱の時、宗全がある大臣(氏名不詳)の邸宅を訪れ、昨今の乱世について語り合った。大臣は昔の例を縦横に引いて持論を「賢く」語った。これにいら立った宗全はこう反論した。

「あなたのおっしゃることにも一理ありますが、いちいち過去の事例を挙げて自説を補強するのはよろしくありません。これからは『例』という言葉に替えて『時』をお使いなさい。『例』は所詮その時の『例』に過ぎません。昔のやり方にとらわれて時代の変化を知らなかったから、あなたがたは武家に天下を奪われたのです。私のような身分いやしき武士があなたのような高貴な方と対等に話すなど過去に例のないことでしょう。これが『時』というものです。あなたが『例』を捨てて『時』を知ろうとなさるなら、不肖宗全があなたをお助けしましょう」。大臣は押し黙ってしまったという。

 この話を載せる『塵塚(ちりづか)物語』は応仁の乱から一〇〇年ほど後に成立した説話集なので、実話かどうか分からない。ただ戦国時代の人が、宗全という人物を権威に挑戦する横紙破りと認識していたことはうかがえよう。

同時代の人々は山名宗全をどう評価した?

 同時代人は宗全をどう見たのだろうか。嘉吉(かきつ)元年(一四四一)、室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)(足利義政の父)が赤松満祐(みつすけ)に暗殺された(嘉吉の変)。満祐は播磨国(現在の兵庫県南西部)に帰ったため、幕府は討伐軍を編成した。

 宗全も討伐軍の大将の一人に選ばれたが、なかなか出陣しない。それどころか宗全の家臣たちが軍資金徴収と称し、京都の土倉(どそう)(高利貸し業者)に乱入して略奪に走る始末であった。細川持之(もちゆき)(勝元の父)が激怒し、宗全を討つ準備を始めると宗全は謝罪し、ようやく事態は収拾した。公家の万里小路時房は日記『建内記』で「近日の無道・濫吹(らんすい)ただ山名にあるなり」と憤っている。