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戦国時代が始まるきっかけとなったとされる「応仁の乱」や「明応の政変」。それぞれの事件を引き起こしたのは、山名宗全と細川政元だ。身分秩序を重んじる時代から、群雄割拠、下剋上、実力主義の戦国時代へと移り変わる過渡期のキーパーソンたちはどのような価値観を持っていたのだろうか。本稿では、呉座勇一『武士とは何か』(新潮選書)の一部を抜粋・編集して紹介する。

山名宗全の逸話「例という文字をば、向後(きょうこう)は時という文字にかえて御心得あるべし」

 日本史上最大とも言われる大乱、応仁の乱(一四六七~七七年)。全国の大名は東軍と西軍に分かれて争った。東軍の総大将は細川勝元。そして西軍の総大将は山名宗全(やまなそうぜん)である。

 宗全に関しては有名な逸話が伝わっている。応仁の乱の時、宗全がある大臣(氏名不詳)の邸宅を訪れ、昨今の乱世について語り合った。大臣は昔の例を縦横に引いて持論を「賢く」語った。これにいら立った宗全はこう反論した。

「あなたのおっしゃることにも一理ありますが、いちいち過去の事例を挙げて自説を補強するのはよろしくありません。これからは『例』という言葉に替えて『時』をお使いなさい。『例』は所詮その時の『例』に過ぎません。昔のやり方にとらわれて時代の変化を知らなかったから、あなたがたは武家に天下を奪われたのです。私のような身分いやしき武士があなたのような高貴な方と対等に話すなど過去に例のないことでしょう。これが『時』というものです。あなたが『例』を捨てて『時』を知ろうとなさるなら、不肖宗全があなたをお助けしましょう」。大臣は押し黙ってしまったという。

 この話を載せる『塵塚(ちりづか)物語』は応仁の乱から一〇〇年ほど後に成立した説話集なので、実話かどうか分からない。ただ戦国時代の人が、宗全という人物を権威に挑戦する横紙破りと認識していたことはうかがえよう。

同時代の人々は山名宗全をどう評価した?

 同時代人は宗全をどう見たのだろうか。嘉吉(かきつ)元年(一四四一)、室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)(足利義政の父)が赤松満祐(みつすけ)に暗殺された(嘉吉の変)。満祐は播磨国(現在の兵庫県南西部)に帰ったため、幕府は討伐軍を編成した。

 宗全も討伐軍の大将の一人に選ばれたが、なかなか出陣しない。それどころか宗全の家臣たちが軍資金徴収と称し、京都の土倉(どそう)(高利貸し業者)に乱入して略奪に走る始末であった。細川持之(もちゆき)(勝元の父)が激怒し、宗全を討つ準備を始めると宗全は謝罪し、ようやく事態は収拾した。公家の万里小路時房は日記『建内記』で「近日の無道・濫吹(らんすい)ただ山名にあるなり」と憤っている。

 出陣した宗全は大活躍し、追いつめられた満祐は自害した。すると功を誇った宗全は播磨で寺社や公家の荘園を侵略し始めた。後花園天皇に侵略禁止命令を出してもらうという案が出たが「宗全のような乱暴者は天皇の命令にも従うまい。かえって天皇の権威に傷がつく」と慎重論が出て、立ち消えになった。

 そして拙著『応仁の乱』(中公新書、二〇一六年)で指摘したように、応仁の乱のきっかけも宗全によるクーデターだ。このように見ると、宗全は下剋上の申し子に映る。

下剋上する立場ではなく、既得権益側にいた山名宗全

 だが、意外と保守的なところもあった。クーデターを起こした宗全は、娘婿の斯波義廉(しばよしかど)を幕府ナンバー2の地位である管領(かんれい)につけて幕府の実権を握った。なぜ自ら管領にならなかったかというと、管領になれるのは細川・斯波・畠山の三家のみという慣例があったからだ。宗全は幕府のしきたりを尊重したのである。

 幕府内での大名の序列は、大まかに言って、現管領、管領家(細川・斯波・畠山)、足利一門大名、非足利一門大名というものである。山名氏は足利一門大名なので、赤松・土岐(とき)・佐々木・大内といった非足利一門の大名より家格が上である。確かに山名氏の家格は細川氏よりは低いが、全体から見れば高い部類である。その意味で宗全は既得権者であり、旧来の体制を破壊する革新者にはなり得ない。

旧来の秩序に即する一面も

 応仁の乱の最中、西軍の主力諸将の連名で出された命令書には、管領家の斯波義廉や畠山義就(よしひろ)が宗全より上位に署名している一方、西軍の最有力大名だが家格は低い大内政弘は名前すら連ねていない。西軍の中心人物である宗全が、家格を基準に、西軍大名を序列づけていたと考えられる。

 加えて、宗全は公家や僧侶などとも文化的な交流をしていた。一例を挙げよう。連歌七賢の一人である高山宗砌(そうぜい)は、山名氏の家臣である高山氏の出身であり、宗全と親しかった。享徳(きょうとく)三年(一四五四)十二月、八代将軍足利義政から隠居を命じられた山名宗全が分国但馬に下向すると、宗砌も但馬に下り、翌年但馬で死去している。宗全は古典的教養を備えており、既存の秩序に親和的な側面も有していたのである。

 よって宗全は、家柄や身分が重要な時代から実力主義の戦国時代へと移行する過渡期を象徴する人物といえる。

戦国時代の始まりは明応の政変?

 戦国時代はいつから始まったのか。拙著『応仁の乱』でも述べたように、応仁の乱から戦国時代という理解が一般的である。この乱によって室町幕府が衰退した結果、日本全国に戦国大名が誕生したと考えられてきた。

 しかし日本史学界では、応仁の乱ではなく、明応(めいおう)二年(一四九三)に起こった明応の政変を戦国時代の幕開けと捉える見解が有力になってきている。私は応仁の乱からという従来の理解で良いと考えているが、明応の政変の重要性は認める。

 実は応仁の乱後、室町幕府の再建、将軍権力の復活が進んでいた。けれども明応の政変の勃発によって、それらの努力は水泡に帰した。中世史研究者の大薮海(おおやぶうみ)氏の言葉を借りれば、幕府は「明応の政変によりとどめを刺され、もはや往時の勢いを取り戻すことはなかった」。戦国乱世への突入は避けられないものとなったのだ。

細川政元によるクーデター

 この明応の政変の仕掛け人とされるのが、細川政元(まさもと)である。政元は室町幕府内で最大の有力大名であり、かねて幕府一〇代将軍の足利義稙(よしたね)と不仲だった。

 応仁の乱において、細川政元の父である勝元は東軍、足利義稙の父である義視(よしみ)は西軍に属しており、敵対関係にあった。この父親の代からの因縁もあって、両者の関係は義稙の将軍就任当初から円滑を欠いた。

 足利義稙は自身の権力を強化するため、有力大名の畠山政長を支援し、細川政元の対抗馬として育てようとした。このため、政元はますます義稙に反発するようになった。

 そして足利義稙は、畠山政長の意見を容れて、政長の仇敵である畠山基家(義就の息子)の討伐を宣言する。義稙は将軍としての求心力を高めるため、自ら大軍を率いて出陣した。ところが義稙が京都を留守にした隙に、細川政元は日野富子(八代将軍足利義政の後家)らと結託してクーデターを起こし、新将軍に義稙のいとこの足利義澄(よしずみ)を擁立したのである。