信長より先に「将軍追放」「比叡山焼き討ち」を果たしたオカルト武将の名前写真はイメージです Photo:PIXTA

室町時代後期から戦国時代初期にかけて活躍した細川政元は、足利将軍を追放し、信長よりも先に比叡山焼き討ちを実行するなど、大胆な行動で絶大な権力をふるった武将だ。しかしその素顔は、出家して僧となりながら政務を執り、オカルトで国政を動かした変人とも言われている。この革新的すぎる政治スタイルがゆえ最期は暗殺されてしまうが、彼の行動にはしたたかな「策略」が見出せるのだという。※本稿は古野 貢『オカルト武将・細川政元 室町を戦国に変えた「ポスト応仁の乱の覇者」』の一部を抜粋・編集したものです。

奇矯な振る舞いをする
細川政元の真意とは

 細川氏の繁栄は、修験道などオカルト的なものへの接近や、奇矯な振る舞いが目立った政元の個性を探るヒントにもなります。

 なにしろ幕府のど真ん中を占めている権力者集団であったわけですから、旧来からある儀礼や慣習などはとても大事にしていたはずです。むしろそれらをきちんと守ることが幕府や世間から求められる真っ当なあり方であると思われます。

 しかし、細川政元はそのようないわば保守的なあり方を拒否するかのようなおかしな振る舞いをするわけです。背景として、政元が京兆家(編集部注/室町幕府の管領を務めた細川氏の嫡流)の家督を継いだのが、変化が求められる時期だった、ということがあるように思います。

 応仁の乱の最中に父勝元(編集部注/東軍の主将、細川勝元)と祖父宗全(編集部注/西軍の主将、山名宗全)とが揃って亡くなった結果、細川氏の嫡男で山名氏の血脈にもつながる政元が家督を継ぐことになります。そのため、世間は「これは応仁の乱がいよいよ終わる」と大層期待したでしょう。

 しかし、内乱は簡単には終わらず、すぐに終戦というわけにはいきませんでした。この状況のなかで政元が感じた世の変化のようなもの、これが彼の人生のスタートといえるのではないでしょうか。