わずか7歳で家督を継ぎ
和平への期待も高まるが…
政元の生まれた翌年がすなわち応仁元年であり、この年に応仁の乱が始まります。政元の父の細川勝元と、母の養父に当たる山名宗全が東西に分かれて戦うわけです。
応仁の乱というと、そもそも細川と山名という当時の室町幕府の巨大な勢力があらかじめ対立していたという構図で理解されやすいのですが、ここには誤解があります。
戦いが始まる少し前は、細川氏と山名氏は協調関係にありました。そうでなければ勝元と山名熙貴の娘の婚姻関係そのものが成立せず、政元が生まれることはありません。
つまり聡明丸の誕生は、細川・山名両氏の協調関係を体現したものとして当時は評価されたものの、幕府内の力関係や人間関係・利害関係のなかで両者が対立し、戦乱に入っていくのです。
11年にわたる応仁の乱が始まって6年後の1473年(文明五)の3月に宗全が、続いて5月に勝元が死去します。応仁の乱の東西両陣営の主将がほぼ同時に亡くなってしまい、戦い続ける意義が失われてしまいました。ところが内乱は終わらず、継続していきます。
その中で政元はどうなったのでしょうか。当時7歳といわれており、この時に家督を父親から継承しています。細川氏と山名氏双方の血脈を引いている彼が細川京兆家の当主になったことから、両家を統合して戦いを終わらせる象徴的存在になるのだと期待され、和平の機運も高まったといわれています。
実際、政元が家督を継いだ翌年の1474年(文明6)4月には、山名宗全の後を継いだ山名政豊との間に和睦が成立します。ところが、内乱全体は終わらず、なお継続していきます。
このような動きにどのくらい政元が関与したのかといえば、できることはほとんどなかったはずです。10歳にもなっていない少年ですから、いくら「賢かった」「聡明だった」と言われても、具体的な政治・軍事への関与や決断ができるとは思えません。