応仁の乱が終結し
ようやく元服した細川政元
この時期に政元を支える集団のようなものが成立してきて、彼らが対応することになります。
政元からすれば大叔父のような立場の細川政国や、細川氏が守護を務める「分国」と呼ばれる国からピックアップをした国人といわれる人々によって編成された「内衆」らが、まだ幼い政元を支える体制を作り、状況に対応していきました。
ですから、戦争が終結しないまま事態が進んだのも、名目上トップである政元の意思ではなく、内衆たちの利害関係などによるものではないかと考えられます。
この内衆と呼ばれる集団指導体制的なものは、意外に長く残り続けることになります。幼い政元を支えるために作られた組織ですから、当の政元が成長してしまうとその意義が薄れ、ある程度解消していくはずです。しかし、彼らはその後も残り、細川氏の有力な家臣として活動し続けました。
1477年(文明9)になり、将軍義政が戦争を終わらせることを決断し、応仁の乱は終わりました。とはいえ、この戦いはそもそも義政が自分の後継者についてきちんと対応していれば起きる可能性は低かったのです。
彼が弟の義視を後継者に立てたにもかかわらず、実子の義尚誕生後にきちんと整理しなかったので、後継者争いが起きてしまったわけです。
ここから、将軍という当時の政界トップのリーダーシップの不調が明らかになってしまいます。また、本来在京する守護が応仁の乱によって自らの分国に帰国したことから、中央政府である幕府に一番近いところに自分の足場(=分国)を持っていた細川氏がその後の幕政をリードしていくことは必然であります。
応仁の乱終結後の1478年(文明10)、政元はようやく元服を果たします。ただその前に文明5年の時点で一度京都へ上洛し、将軍義政に出仕しています。そこで細川氏の後継者として顔つなぎをしたわけです。
それから、応仁の乱が終わったあとに元服をして、公的にも後継者になった、ということになります。