
三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第63回は、大学受験における「文系」「理系」の分類について考える。
「文理選択」で忘れてはいけない視点
ベテラン数学教師・柳鉄之介の指導により開始された、LINEを使う計算バトル。
「私は文系だから」と音を上げる早瀬菜緒に対して、柳は「文系で不利というのは逃げ口上だ」と一喝する。
我が国に公教育制度が導入されて以来、大学入試は「文系」「理系」で大別することが主流だ。そのせいか、文理の違いを論じる風潮は多く目にするし、賛否は別にして「文系<理系」という主張を扱うものも多い。SNSで学歴をあおるような発言も目立つし、私立文系を意味する「私文」という言葉はときに悪口としても使われる始末だ。
確かに、受験勉強をしていくうちに理系から文系に変更する「文転」の人がいるのは事実だ。だが、単純に興味分野が変わっただけかもしれないし、逆に(「文転」ほど数は多くないが)文系から理系に変更する「理転」の人たちもいる。そもそも文理に優劣はない。
いずれにせよ、日本の大学入試において、文理選択は志望校選択と同じぐらい重要になる。
あまりお勧めしないのが、「数学が苦手だから文系」という選択だ。一見すると合理的かもしれないが、難関大学であっても共通テストや二次試験で数学が必須の場合が多い。それに、高校生の段階での「できること」のみで将来の進路を制限するのは、あまりにもったいない。
私は元々漠然と文系志望であったが、高校1年生の進路相談の際に担任に言われた言葉が印象的だ。
私が文系志望であると告げた際、それを肯定する形で担任はこう言った。「あなたは、抽象的な理念を大切にするし、あえてあいまいさ、余白といったものを残す。だから、文系の考え方が合っていると思う」。
文理選択の際には、「何ができるか何が得意か」以上に、「自分は普段どのように考えているか」という視点が大切だ。
以上のように文系と理系の違いを見てきたが、最近その垣根が取り払われつつある。慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)に拠点をおく環境情報学部や総合政策学部はその最たる例だし、東京大学は文理融合の新学部“UTokyo College of Design”の創設を発表した。
また、デジタル社会の中では社会科学の多くの分野で統計やデータ分析は必須ツールだ。2023年に一橋大学がソーシャル・データサイエンス学部を設置したことも記憶に新しい。
過度な文理融合は「実学偏重」を生みかねない

文理融合の必然性は、文系が理系に歩み寄るという構図ばかりではない。科学技術が一般市民に広く受け入れられている今、自然科学の分野でも人間社会のあり方や倫理的な課題を考えることは欠かせない。
現在の教育体系における文理融合のメリットの1つとして、「受験生の予期せぬ出会い」が挙げられる。一橋大学の例だと、東大理系への進学を目指していた受験生が、後期入試でソーシャル・データサイエンス学部に入ることも多い。その結果、従来の枠組みでは得難い接点が築かれる。
だが、文理融合で現れるのは、メリットばかりではない。私が危惧しているのは、この文理融合が「実学偏重」に繋がりかねないということだ。先にあげたデータサイエンスなどの分野は、人間社会に直接の利益を与えることが期待される。
対して、文理融合の必要性が比較的薄いと考えられる数学や文学などの分野は、実社会には直接的に利益をもたらしにくい。
だが、統計の基礎となる数学の発展や、「人間」を考える哲学の発展は無視されるべきではない。研究資金や人員が、実学のみに行き渡るようになると、そもそも学問とは何かという根本的な問いに結びつく。
何かとやり玉に挙げられがちな文系・理系の区別だが、学問体系から見るとなかなかに合理的な分類だ。文理融合ももちろん重要だが、その根源となる「文」と「理」それぞれの充実も忘れてはならない。

