法学部に対して屈折した感情が
東京帝大の宿命的な「落とし子」
蓑田は後に美濃部ら法学部関係者を激しく攻撃するが、法学部には屈折した複雑な感情があったようだ。蓑田が東京帝大の在学当時は大正デモクラシー時代で、マルクス主義や、法学部教授の吉野作造が提唱した民本主義が注目を集めていた。東京帝大の学生を中心に、進歩的学生団体の新人会が1918年に発足した。
蓑田は、新人会に対抗して翌年結成された興国同士会の会員になる。在学中、蓑田が挫折し、進歩的知識人に対する反感と被害者意識が生まれる事件が1920年にあった。経済学部教授の森戸辰男が発表した『クロポトキンの社会思想研究』という論文に対し、興国同志会は「学術論文ではなく、危険思想の宣伝だ」と批判活動を始める。東京帝大の総長や文部省の次官とも面会し、森戸の処分を訴えた。政府内でも問題視する意見が強く、森戸は新聞紙法の朝憲紊乱罪で起訴された。
勝ち誇った蓑田は、学内で報告会を開いた。だが、新人会のメンバーに「学問の自由を守れ」「言論の自由を確保すべきだ」と反撃された。さらに「学問のためを思うのなら、なぜ文部省のような学外に働きかけたのか」と詰問される始末だった。立て直しを目指して後日、演説会を開き、学外に持ち出したやり方を反省したが、森戸擁護の意見が強く、再びやりこめられた。
知識人に対する抜きがたい反感が、蓑田の心に深く沈殿していった。こうした頓挫が後に、滝川事件や天皇機関設問事件での激しい攻撃性を生んだことは確かだろう。だが、そもそも蓑田が東京帝大時代に国粋主義的運動にのめり込んでいった背景は何だろうか。そこには東京帝大が歴史的に担った「二重性」がある。蓑田は東京帝大の宿命的な「落とし子」でもあった。
(文筆家、元朝日新聞記者 長谷川 智)