蓑田も学者だったが、著作は空理空論の連続のような文章だ。例えば、東京帝大教授の矢内原忠雄の論文には次のような批判を展開した。

 矢内原論文は「『戦争は害悪であり、反真理である』と言っている。戦争は反真理であるという如き語法思想法は、現代において認識論、学術論理学の全く初歩的知識もない科学的非常識、致命的無哲学の不随意表白であって、科学や心理を論ずる資格を欠いたものである。いうまでもなく単に心理といえば、そのうちには精神科学哲学的心理の他に、数学的真理もあれば自然科学的真理もあるから、戦争は反真理であるというごとき粗雑空漠思想はそれこそ反真理である」

 論理で批判するというより、抽象的で否定的な言葉を並べて論難している。ユダヤ人を徹底的に差別したヒトラーの『我が闘争』と通じる表現ぶりだ。

「文化戦争」の嵐が吹き荒れ
軍部や政府との対立を恐れた大学

 蓑田が軍部や政府、文部省を巻き込むと、そこから大学当局に圧力がかかった。大学執行部は、軍部や政府との対立を恐れて、当該の教授らに辞職を求めたり、処分をしたりした。蓑田がいなくても、文化戦争とも言えるような戦前の異論排除は避けがたかっただろう。しかし、蓑田がいなければ、その様相は違った形になっていたことも事実だろう。日本の歴史に暗い影を落としたことは間違いない。

 教育学者の竹内洋らは2004年、7巻に及ぶ『蓑田胸喜全集』(柏書房)を刊行した。埋もれかけた蓑田の軌跡をたどり、「狂信化のベールをはがすことが近現代史に再考に必要」という問題意識からの労作だ。

 それによると、蓑田は「東京帝大の法学部に入ったが、索漠理論と頽廃学風に堪えず、文学部宗教史学科に転じた」と話したり、書いたりしていた。しかし、竹内の調査によると、五高から法学部に入学した資料はなく、文学部を卒業してから法学部に学士入学した記録は見つかった。