京都帝大での講演もその一環だったが、蓑田は左翼学生に吊るし上げられ、1時間ほど立ち往生した。講演会には滝川が関係していたため、この直後から蓑田は、『原理日本』で滝川批判を始める。

 蓑田の手法はレッテル貼りである。滝川の著書にある「私有財産制度や共産主義の良し悪しを論じるのは、法律学とは別の場でなされるべきだ」という記述に対し、「支離滅裂の不徹底、無原理、無信念、無気力思想である」と論難し、マルクス主義者のレッテルを貼る。相手の発言や文章からわずかでも批判のタネを探し出し、攻撃するのだ。

政治家や議会に働きかけ大学へ圧力
「レッテル貼り」という必殺手段

 蓑田は単に言論だけで批判するのではなく、議会に持ち込む。

 満州事変以降、右派的な政治家が台頭していた。宮沢喜一元首相の父・宮沢裕もその一人で、衆院予算員会で滝川の『刑法読本』を取り上げ、「赤化した教授を辞めさせるべきだ」と文部大臣に迫った。このときも背後には蓑田の働きかけがあった。滝川は治安維持法に最も強く反対した1人で、満州事変や軍事教練にも反対していると見られて、軍部ににらまれていた。蓑田は軍部から資金援助を得ていたとされている。

 翌36年の2・26事件を経て、陸軍の力が強大化し、37 年7月に日中戦争が勃発すると、東京帝大で言論事件が連続して起きる。経済学部教授の矢内原忠雄は、同年9月号の中央公論に『国家の理想』を寄稿した。「異論の主張、批判の存在こそ挙国一致の必要条件である。正義と平和こそ国家の理想である」という内容だった。

 今なら民主主義の真っ当な主張だが、日本の大陸政策を批判しているとして、排撃の動きが強まった。蓑田は前年から矢内原批判をしていたが、議会や文部省、軍部を巻き込んで攻撃を強め、矢内原は同年12 月に辞職に追い込まれた。

 蓑田の攻撃は異様で、標的となった知識人は辟易とし疲弊した。