次々とアンパンマンの絵本が出版されるなか、とうとう1988年10月にはアニメ『それいけ!アンパンマン』の放送が始まりました。どんな番組でも2%程度しか視聴率が取れないと見なされていた枠での放送でしたが、予想に反し初回から7%を記録。その後も人気は高まっていき、1990年、原作は日本漫画家協会賞の大賞を受賞します。

 当初、やなせ先生はアニメの制作現場にはノータッチの予定でした。しかし、アニメ制作の経験があったやなせ先生は、どうしてもアニメの出来に納得がいかなかったようです。そのうち週1回の初号試写(アニメの映像チェック)のミーティングは、やなせ先生の独演会と化すほど入れ込みます。その力の入れようは晩年まで続き、アンパンマンの放送が1000回を超えてもなお、やなせ先生は欠かさず試写を見ていました。

 こんな状況であれば、アンパンマンの映画にも口をはさむに決まっています。作品の質に我慢ならず現場に介入していき、ついには自宅に試写室を作ったうえに、映画やアニメが良い出来に仕上がった場合は賞金を出すほど力を入れることになるのです。

やなせを支え続けた妻が
病魔に襲われてしまう

『朝日新聞』(編集部注/1988年5月28日付)の柳瀬夫人へのインタビューには、次のようなやり取りが載っています。

 記者から「奥様も、人生どうだったか、振り返ることありますか?」と聞かれた際には「ないこともないですけれど、振り返ったって戻って来ませんでしょ。だから、いつも前向き。きょう1日元気で、少しは人様の役に立って、自分のことも少しは出来て、寝るとき、ああ、きょうもよくやったなって……」と答えています。

 幼いころに父を亡くし、敗戦からほどなくして夫に先立たれるという暗い過去を振り返るのではなく、柳瀬夫人は朗らかに未来に目を向けていました。そしてその未来とは、やなせ先生の未来でもありました。柳瀬夫人は「私はクジ運が悪くていつもハズレだったけれど、あなたが当たって良かった。日本中の誰知らぬ人もいない人になってね」といつも言っていたそうです。