
国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親として知られるやなせたかし。温かな作品世界の裏には、戦中派としての過酷な体験が横たわっていた。中国大陸に出征し、日本の大義を現地で宣伝することになったやなせが、はたとひらめいたアイデアとは?※本稿は、物江 潤『現代人を救うアンパンマンの哲学』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。
軍隊には向かない軟弱な男が
勇猛果敢で有名な部隊に配属
戦中派とは、物心ついた頃から軍国主義の日本で育てられ、その多くが戦地に赴いた世代を指します。一般的には、やなせ先生が生まれた1919年頃から1928年頃までに生を受けた人々のことです。やなせ先生自身、忠君愛国の思想で育てられました。天皇は神であり、日本の戦争は正義のための聖戦であると信じていました。そして正義のためならば、命を捨てるのも仕方がないと思っていたわけです。
少しだけ先に生まれた世代であれば、もっと自由な頃の日本を知っています。少しだけ後に生まれた世代ならば、戦地に赴くことはありませんでした。戦中派とは、最も軍国主義的な思想に染まり、そして最も多くの犠牲者を出した世代だと言えます。
1940年1月、20歳のやなせ先生のもとに赤紙がやってきます。軍隊に入隊する日がきたのです。約1年前、銀座に近いからという理由で田辺製薬宣伝部に入社したばかりでした(編集部注/学生時代のやなせは、1日一回は銀座に行けと学校から推奨されていた)。
周囲からは「3日と持たずに逃げてくるか、死んでしまうかだろう」と大変に心配をされます。軍人とは似ても似つかない気質を持ったやなせ先生なので、そう心配されるのも無理はありません。