アンパンマングッズを
配りながら妻は逝った
その間、やなせ先生とアンパンマンも負けじと快進撃を続けます。

1991年には勲四等瑞宝章を受章し、「アンパンマンの勲章を観る会」というユーモラスなパーティーを開催。元祖マルチタレントと称された卓越した能力なのか、テレビ黎明期を支えたノウハウなのか、はたまた生来の才によるものなのかは分かりませんが、やなせ先生が企画したこのパーティーは大成功を収めます。パーティーが嫌いだったはずの柳瀬夫人も大喜びで、今度は友達をみんな呼ぶと話すほどでした。すべては順調であり、やなせ先生が願った奇跡が現実味を帯び始めます。
しかし、メルヘンの世界とは違い現実は残酷でした。1992年夏頃より、柳瀬夫人の体調は悪化していったのです。足や腰にも転移したのか痛みを訴えるようになり、ついには車いすなしには外出できなくなってしまいました。
1993年7月、柳瀬夫人を喜ばせたいという一心で準備してきた「アンパンマン20周年の未来を祝う会」を開催。楽しみにしていたパーティーでしたが、みんなに車いす姿を見せたくなかった柳瀬夫人は参加しませんでした。
そして同年11月13日、貧血で倒れた柳瀬夫人は緊急入院します。
「これ以上、私が生きると、あなたに迷惑をかけるから、いい加減で死ななくちゃ」と話した柳瀬夫人のベッドの周りには、たくさんのアンパンマングッズが積み重なっています。看護師や見舞客に、柳瀬夫人はそれらを配っていきました。受け取っていく人々の姿を見た柳瀬夫人は「せめてあなたが、誰でも知っているような人になったらうれしい」という願いが叶ったことを、しみじみと嚙みしめていたのかもしれません。
11月22日、生前「わたしの生命はあなたにあげるわ。長く生きていい仕事をしてね」と言っていた柳瀬夫人は亡くなります。75歳でした。
「墓はいらない。お墓にはいっても、それを守ってくれる子供がいないんだから、献体してから散骨してくれればいい」との遺言をやなせ先生は受けるものの、どうしてもそれはできませんでした。