その町長さんの姿に「ハッ」と気付いた私は「ちょっと失礼します」と、言葉を残し、別室へ逃げるように去りました。
戦争中は国防婦人会が組織され、会服の規定がありましたので、会服を上にはおり、手を通しながら「泣いてはいけないよ」と心に言い聞かせました。
心とは裏腹に何げなくその場をつくろうように、町長さんに改めてあいさつしました。
「公報をいただきます」
町長さんは言葉も少なく「写真がありますか」と申されたので、スナップ写真を持ってきますと、線香をたて丁寧に合掌なさって帰られました。
同級会の時、仲間のご主人にも戦死なさった方が多くいたことを知りました。公報を受けとったときの模様などを話し合いますと、AさんもBさんも異口同音に「そうだよ、涙なんか出なかったよ」と言います。
「だけど人知れず泣いたよね」と私が言うと、この言葉にもみんな同じ思いのようでした。
当時の世相と言うのでしょうか。報道にしてもきれいごとばかりの記事でした。涙を流さないことが銃後の妻の美談として取りあげられれば、そうしなければいけないような気になり、深く考えたり、反発することもなく正しいことのように思っていました。
帰らぬ父を探したが
街はもう火の海だった
〈福岡県八女市〉斎藤千鶴(主婦・61歳)
昭和20年(1945年)8月9日、旧満州(中国東北部)ハイラル。朝、突然の爆音で道に穴があき、ソ連軍参戦とわかる。
ハイラル地方検察庁次長だった父は検察庁に行く。母と、私(当時16歳)たち子供6人は、ふろの中に入り畳を蓋にして父を待つ。父が帰らないので、午後3時ごろ、近所の20人ほどで日本軍の駐屯部隊のある所を目指して出発する。100メートルほどの橋を渡って歩き続ける。
着いてみると、すでに部隊もおらず、軍専用の駅舎には担架に乗せられたまま動けぬ傷病兵が4、5人置き去りにされていた。小高い丘の駅舎から見ると、ハイラル市内は火の海である。
傷病兵のことを考えるとたまらぬ気持ちになるが、置き去りのまま私たちは線路を歩いて逃げる。敵軍の照明弾が上がると木陰に隠れながら、母は生後10カ月の妹を背に、私は弟妹たちをたたきながら、引きずって次の駅に着いた。