大阪で乗り換え、昼間の山陽線を走りました。ほとんど鎧戸を下ろし、窓外を見てはいけないと言われました。20時間近くかかり5月5日夕方、広島駅前の宿屋へ着きました。

 しかし、そこで待っていたのは、兄は既に軍港だった呉へ移ったとの伝言でした。その晩は何回かの空襲警報があり、真っ暗な旅の宿で姉と2人、まんじりともしないで泣き明かしました。

 あくる日、一番列車で広島から呉に向かいましたが、前日よりきびしく鎧戸を下ろすように言われました。

 呉市が前夜空襲で全滅したと話しているのが聞こえて来ました。兄の安否を気遣いながら伝言のあった家を訪ねて行きましたが、そこにも兄は来ていませんでした。

 人間魚雷に乗るために広島から呉に移ったこと、その人たちは外部の人とはもう接触できないことなどを知りました。姉と2人唖然として涙も出ませんでした。面会できるよう、いろいろお世話をしてくださった方に、お礼もそこそこに帰路につきました。

 家に帰ってから家族みんなでむせび泣きました。

夫の戦死を知っても
泣いてはいけない重苦しい雰囲気

〈愛知県宝飯郡〉後藤秋子(家事・72歳)

 昭和19年(1944年)2月1日、寺の住職だった私の夫は名古屋の部隊に入隊しました。

 5月に南方方面へ移動、サイパン島に上陸したことは、いろいろな方からの便りで知っておりました。その年の7月18日、サイパン島玉砕と新聞に報道されました。

 翌20年5月でした。当時の町長が突然寺を訪問されました。19年の2学期から、名古屋市の小学校の疎開学童を収容していましたので、学童たちのようすを見にこられたと思い、座敷にお通ししました。

 町長さんは「最近和尚様から便りがきますか?」と何げなくお話しされます。戦死の公報を届けにいらしたなど、知るすべもない私は、疎開の子のことを淡々と話し、相手をしておりました。

 何も気付かない私を不憫に思われたのでしょうか。「奥さん、実は……」と涙声で頭を畳に深々と下げられ、2つ折りにした小さな紙を差し出されました。