この駅で、民間人でいっぱいの列車に乗る。列車は3時間ほどで燃料が切れ、また歩く。
途中歩けなくなった小さい子は置き去りにされる。馬に乗ったソ連兵が自動小銃を私たちに向けて偵察に来る。婦女子が多いので走り去っていく。
3昼夜ぐらい歩き続け、また別の駅に着く。無蓋車の弾薬箱の上にすし詰めにされて発車。妹は幾度も箱の間に落ち込み、私たちは立ったまま眠った。
興安嶺を越える時、敵やオオカミを防ぐために、日本刀や銃を持つ人たちで斬り込み隊がつくられた。ジャラントン駅で「(敗戦の)天皇放送」「武装解除」を聞く。家を出て1週間目だった。
身内の死を確認できただけ
自分は幸福だと思う
数日後貨車で南下し、分岐点のコウコウケイ駅で父と再会を果たす。チチハル市で1年暮らす間に末妹を失う。

水源地近くの2軒続きで間取りが対称の官舎に住む。あちらは医師や看護婦さんら6人。こちらは3世帯15人。たばこやアメなどを売り生活する。ソ連兵が土足で上がってきて小銃を突きつけ、時計や指輪を奪っていく。時計を両腕に5、6個もつけているソ連兵も見た。
2軒続きのトイレの部分に壁穴をあけ、秘密の通路とした。不意打ちでソ連兵が襲ってきたときには、隣からこの穴を伝って看護婦さんらが逃げ込んできたこともあった。
一夜で、ソ連軍、国民党軍、八路軍(共産党軍)と入れ替わる状態。八路軍がいる時、役所関係者が連行された。昭和21年7月23日、父たち司法・行政関係の幹部5人は警察から龍沙公園まで後ろ手に縛られ、黄色の高い三角帽子をかぶり、1頭の馬に1人ずつ乗せられた。
裁判で同日、銃殺された。この2カ月後、引き揚げ命令で南下が始まった。父の埋められた公園を掘ってもらい、父の歯を形見として持ち帰る。コロ島から博多へ。上陸したのはその年10月21日である。
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私は幸福だと思います。父の死を確認することができたからです。友達の中には無蓋車から振り落とされた人、線路沿いに逃げてソ連機から機銃掃射で撃たれた人、道を歩いていて、ソ連兵に連行され行方不明になった人など、数限りありません。
今こうしているのが夢のようです。母も86歳。弟、妹たちも健在で、ありがたいことと思っています。