しかし、そもそも、人間存在について「価値」という概念をくっつけるような考え方は、今日の経済至上主義の風潮の中から出てきた不自然なものであって、製品でも生産マシーンでもない人間というものについて、本来はそんな捉え方をする必要はないはずです。

 いずれにせよ、常に「何らかの価値を生み出さなければならない」と考えて追い立てられるようにして生きることは、終わりのない宿題を抱えているような苦しい生き方に違いありません。ちょうど、アーティスティック・スイミングの選手が、水中で絶えず足を動かして体を浮かし、水上で演技しているような状態です。もちろん、あれは短い時間だから可能なのであって、それをずっと続けることなどできません。しかし、この考えに取り憑かれている人は、もし足を止めたら、直ちに水中に沈んでしまうかのような危機感を抱いて日々を暮らしているのです。

 はたから見れば、こういう人はとても努力家で何事にも一生懸命、責任感が強く常に期待以上の成果を出してくれるので、とても重宝されることも少なくありません。しかし本人にしてみれば、いつも薄氷をふむような思いで物事をこなしているので、周囲からの評価を得ても、それがいっときの安堵感にはなっても、達成感や自信には結びつかないのです。どこまで頑張ったとしても、必ず上には上がいるもので、「自分はまだまだだ」ということになってしまい、キリのない努力を求められます。私たちの「頭」というコンピューターのような場所は、そもそもの基本性質として比較をしたがるところがあるので、これに支配された状態では、いつまでも安心した状態が訪れないのです。

「価値を生んで愛されたい」
思考が対象を変えて拡大する

 それにしても、なぜこれほどまでに、自分が「価値を生み出さなければならない」と思うようになってしまったのでしょうか。その出発点は、やはり「親に愛されるため」「親に認めてもらうため」であったことがほとんどです。そしてそれが、先生に認めてもらうため、周囲に一目置かれるため、上司に評価されるため、世の中に認めてもらうため……などに拡大していくのです。