政治とメディアは「結託」して、社会を一定の価値観に誘導することで安定させ、同時に自分たちの既得権を守ってきた

 中間団体の衰退と同時に、社会を大きく揺り動かしているのがメディアの変容だ。水島氏は『アウトサイダー・ポリティクス』所収の「『アウトサイダー』時代のメディアと政治 脱正統化される『二〇世紀の主流派連合』」で、ジャーナリストと政治家がともに「半専門職(semi-profession)」であることが、アウトサイダーによる批判・参入に脆弱な理由だと論じている。

 この論考でまず水島氏は、「20世紀を通じ、メディアと政治家はともにデモクラシーの担い手として共通の理解を持ち、互いの正統性そのものを掘り崩すことなく、基本的な信頼関係を維持させてきた」と述べる。「何をどのように報じるのが妥当であるのか、双方に暗黙の共通了解があった」のだ。

 以下は私の理解だが、このメディアと政治の「共生」はディープステイト論者のいうような「陰謀」ではなく、周知の事実だった。日本では記者クラブを通じて政治家と政治部の記者が親密な関係をつくり、読売新聞の故・渡邉恒雄氏が典型だが、政界との太いパイプをもつ記者が新聞社内で大きな権力をもつようになった。その新聞社がテレビ局の大株主で、総務省が地上波の免許を管理しているのだから、メディアと権力が一体化しているのは秘密でもなんでもない。

 もちろんこれは、独裁国家のように、日本のメディアが政府に支配されているということではない。「言論・表現の自由」によって政府や政権を批判することはできるが、そこには「何を報じるのか(あるいは報じないのか)」の暗黙の了解があった。

 このことは、情報伝達における「ゲートキーパー機能」で説明される。戦後日本においては、欧米先進国と同様に、政治・司法・行政、メディア、大学など社会の中核を担う組織は、リベラルデモクラシー、非戦と国際協調(グローバル化)、人権の尊重(マイノリティに対する一定の配慮)などの“良識”を共有していた。そして、こうした良識に反する主張や言説は、ゲートキーパー(門番)によって、大衆に広く伝わらないよう慎重にコントロールされてきた。

 1960年代末に大学の不正などに抗議して始まった学生運動は、当初は好意的に報道されたが、それが過激化して社会を根底から覆すことを目指すようになると、主流派メディアは一斉に批判に転じた。当時、朝日新聞社が発行する『朝日ジャーナル』に所属していた川本三郎氏の『マイ・バック・ページ ある60年代の物語』(平凡社ライブラリー)には、新聞社内の空気が急速に変わっていく様子が描かれている。

 このようにして政治とメディアは「結託」して、社会を一定の価値観に誘導することで安定させ、同時に自分たちの既得権を守ってきた。それはすなわち、アウトサイダーを排除することでもあった。

 もちろん、いつの時代にもアウトサイダーはいた。だがかつては自分たちの主張を拡散させる手段(メディア)をもてなかったため、拡声器を積んだ街宣車で大音量で軍歌を鳴らし、「愛国」を訴えるようなことしかできなった。

 だがこうした状況をテクノロジーが大きく変えた。インターネットとSNSによってアウトサイダーのメディアが登場し、主流派のメディアと同じような、あるいはそれ以上の影響力をもつようになった。

 こうしてアウトサイダー・メディアが主流派メディアのゲートキーパー機能を無力化すると、それを利用してこれまでタブーとされてきた(門番によって排除されていた)主張を前面に押し出すアウトサイダー政党/政治家が現われた。主流派メディアの弱体化と主流派政党の低迷は、アウトサイダーのメディアや政治家の台頭と表裏一体の現象なのだ。

新聞・テレビから得られる政治情報について「信頼できない」とする比率は、18~39歳の若年世代では40.1%となっている

 2022年の日本の調査では、新聞・テレビから得られる政治情報について「信頼できない」とする比率は、60歳以上の場合22.6%にすぎないが、18~39歳の若年世代ではその2倍近い40.1%となっている。もちろんこれは日本だけの現象ではなく、アメリカではメディアを「信用する」割合は32%(民主党支持者で58%、共和党支持者で11%)しかなく、18~34歳では26%、4人に1人しかメディアを信頼していない。

 なぜこのようなことになったのか。それは昨年の兵庫県知事選が象徴するように、SNSなどのアウトサイダー・メディアによって、有権者が「多様な」情報に触れられるようになったからだ。

 メディアや政治だけでなく、さまざまな領域で従来の権威が影響力を弱めている。医師はかつては雲上人のように崇められ、その言葉は絶対のものとされたが、いまでは医療情報がネットにあふれ、患者が治療方針を自分で決めることも珍しくなくなった。だが(代替医療の信奉者や反ワクチン派がいるとしても)、国民の半数以上が医学への信頼を失うような事態は考えられないだろう(いまのところは、だが)。

 これは医師が、国家資格をもつ「専門家(profession)」だからだ。医師免許をもたずに医療行為をするのは違法で、弁護士や税理士・会計士などの他の専門職も同じだ。

 ところがジャーナリストにはこうした国家資格がなく、職能団体として組織化されているわけでもないから、自己申告でいつでも「ジャーナリズム」を始められる。それでもこれまで混乱が起きなかったのは、言論を発表する場が新聞・雑誌、テレビ局などの主流派メディアしかなかったため、ジャーナリストになるには報道機関に記者として所属するか、外部執筆者や識者として認められなければならなかったからだ。

 こうした仕組みがアウトサイダーの参入を防いできたのだが、いまでは誰でもYouTubeに動画をアップすれば、その日から「ジャーナリスト」を名乗ることができるし、その動画は閲覧数やチャンネル登録数によってテレビ局の報道番組と対等に評価される。

 このようにしてメディアが「開かれ」れば、読者・視聴者は、どの組織・個人がそのニュースを制作したかに関係なく、より閲覧数・再生回数の多いものや、より刺激が強いもの(あるいは、より自分の価値観に近いもの)を好むようになるだろう。そればかりか、それを「真実」だと思うようになるかもしれず、こうしてフェイクニュースが大きな問題になった。

 この「半専門性」は政治でも同じだ。政治家になるのに国家試験を受ける必要はなく、被選挙権をもてる年齢に達し、供託金を積んで立候補して当選すれば誰でも(日本国籍の保有者だけだが)政治家になれる。

 政治の世界では地盤・看板・かばんを引き継げる有力議員の子どもが圧倒的に有利で、そうでなければ主要政党の地方議員から始めたり、有力議員の秘書になったりして、下積みから議員を目指すしかなかった。こうした政党は中間団体(自民党なら地方の農協や商工団体、野党なら労働組合)から安定した票を獲得でき、このゲートキーパー機能によって、政党の支持を受けずに議員になる道はほぼ閉ざされていた。

 ところが中間団体が解体して無党派層ならぬ「無組織層」が増えると、既成の政党に頼らずに政治家になる道が開けた。これを上手に利用したのが参政党で、地方選挙では一定の支持があれば当選できることを利用して地方議員を増やし、その土台を国政選挙での躍進につなげた。この戦略が可能になったのは政治家が「半専門職」で、ジャーナリストと同じく、アウトサイダーの参入を防ぐ術がないからだ。

 このようにして「アウトサイダー・メディアとアウトサイダー政治家は、既成秩序からの逸脱者としての立場を共有し、むしろ連合して既成秩序に“挑戦”し、その脱正統化を図ろうと」しているのだと水島氏は指摘している。