写されなかった
玉砕の光景
毎日戦中写真には、太平洋戦争期におけるガダルカナル、ニューギニア、サイパン、レイテ島、ルソン島、アッツ島、沖縄といった、いわゆる玉砕の地となった各島嶼(とうしょ)の写真も含まれている。
しかしながら、そこに収められているのは、いずれも玉砕前の比較的平穏な島の風景や、日本軍将兵の非戦闘時の様子を伝えるものである。軍の壊滅を伴う戦闘の苛烈(かれつ)な実態や、玉砕に至る悲劇的光景、ましてや飢餓に苦しむ姿などは、一切写真に残されていない。

いうまでもなく、そうした写真は軍の検閲により「不許可」とされる対象であった。また、そもそも玉砕の可能性があるような最前線の島々には、従軍記者の派遣自体が軍によって認められなかったのである。
4500人の日本兵が玉砕
「保留」となっていたタラワ島の衝撃写真
日本軍占領下のギルバート諸島(現・キリバス共和国の一部)のタラワ島、マキン島への空襲は、パラオよりも一年ほど早かった。
日本軍占領当時にマキン島といわれていた場所は、現在のマキン島とは違って、その南西六キロあたりにあるマキン環礁、いまでいうブタリタリ環礁を指す。その南方160キロほどにあるタラワ島も同様だが、島というイメージにはほど遠く、サンゴ礁の群島であった。日本軍は、これらの環礁の基地として、マキン環礁に水上機の発着地を設置した。
1943年11月、米軍約1万7000人がタラワ島に上陸する。このとき、日本軍の軍人・軍属はわずか4800人にすぎなかった。戦力の差は歴然としていた。勝敗は三日で決着がつく。日本軍がマーシャル諸島の防衛を重視したため、ギルバート諸島の戦力が手薄になっていたことが原因のひとつだった。
結局、25日にタラワ島の日本軍は玉砕する。死者は4500人にのぼり、生き残ったのはわずか14人だけだったという。
大本営は、タラワ島玉砕後も、12月6日まで米軍艦隊の撃沈、撃破を発表しつづけた。日本の新聞メディアも、米軍侵攻などの写真を掲載せず、日本軍の敗北を隠蔽(いんぺい)した。
複写された米軍の写真の掲載許可がおりたのは一年近く経った1944年9月23日、玉砕の記憶が茫漠(ぼうばく)とした頃であった(下記写真)。
