同日、イギリスの新聞から複写された戦況写真の掲載許可がおりている。こちらは、毎日の「大東亜戦争画報」第35輯(1944年10月8日)に、2ページにわたって「敵のタラワ島上陸戦・見よ勇士死闘の跡を」と題して5点が掲載された。

 戦争末期には、こうした玉砕さえも愛国心を煽(あお)るニュースとして扱われた。「毎日新聞」に限らず、どのメディアも同じようなものだった。

死臭が漂う硫黄島の
壕の中

 硫黄島から生還したひとりに毎日(東日)写真部の石井周治がいた。

 石井は、1941年準社員として入社し、写真部に配属された。1942年1月に初めての従軍を経験する。落下傘部隊が降下するスマトラのパレンバンに上陸した後、1年半ぐらいの間に、ジャワ、シンガポール、タイ、仏印、ラングーン(現ヤンゴン)、雲南、サイゴンを回り、数多くの戦争報道に携わった。

 1943年3月いったん東京に帰社したものの、1年あまり経った1944年6月に臨時召集となり、1カ月後に衛生兵として硫黄島に派遣された。

 1945年3月21日、大本営が硫黄島守備隊の玉砕を発表した後も、そのことを知らず、地下35メートルの病院壕を掘りつづけ、のどの渇きと戦いながら、頭のなかでは米軍と対峙(たいじ)していた。その間の、1944年11月8日付朝刊には、石井が亡くなったという誤報まで掲載されている。

 石井は、死臭が漂う壕のなかで過ごしつづけた(下記写真)。

硫黄島の壕内で待機する陸戦隊兵士硫黄島の壕内で待機する陸戦隊兵士(海軍省許可済)(出典:毎日戦中写真)

 そして玉砕の報から1カ月ほど経った頃、野戦病院になっていた壕を出て、米軍に投降した。石井にとっては、忘れることができない、地獄のような硫黄島での10カ月が終わった。

 捕虜になった後、新聞社の人間だとわかり、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、ワシントンDC、バージニア州フォート・ユースティスに移送されて、10カ月間、米軍の捕虜としての生活を過ごし、1946年7月に浦賀に戻ってきた。

 このときの状況は、1946年に石井が刊行した『硫黄島に生きる』(中央社)に詳しく書かれている。ただ、米国で聴取された内容については判然としない。