史実では「困ったときのやなせさん」――嵩は“ファイティングやない” 漫画を描けぬまま走り出したその理由【あんぱん第101回】

八木の会社のモデル・サンリオも
ビーチサンダルを作っていた

 八木は雑貨屋・九州コットンセンターから会社を設立。事業を拡大していた。そのなかで花のついたカラフルなビーチサンダルがヒット商品になっていた。フリーになった蘭子は商品のコピーを書く仕事をもらっていた。戦災孤児だったアキラ(齊藤友暁)や戦地で一緒だった粕谷(田中俊介)も雇われていた。八木は嵩に「逃げちゃダメだ。漫画は書き続けろ」と言う。

 九州コットンセンターは山梨シルクセンターにあまりに名前が似ていることから、モデルは山梨シルクセンターが前身になるサンリオであることは明白だ。

 サンリオ創業者の辻信太郎は山梨県庁に勤務していたが33歳で辞め、山梨シルクセンターを作り、山梨県の特産物であるシルク製品を扱っていた。が、取引先のバイヤーに不渡り手形を食わされ倒産寸前に。銭湯の前に戸板を広げて小物雑貨を売って凌いだ。

 その後、ゴム草履が外国で「オリエンタルサンダル」と注目されていたことに目をつけて、花柄をつけてみたら大当たり。第一号ヒット商品になった。それが小物にかわいい図柄をつけるキャラクター商品のはじまりだった。最初のキャラクター商品は「いちご」。やがてハローキティという大人気キャラを生み出すことになる。

「なるほど、デザインという付加価値をつけたらモノはまったく違う売れ方をするものだなあ」と自伝『これがサンリオの秘密です』(扶桑社)に辻は書いている。

 ちなみにサンリオは「山梨王」のもじりと思われるが、そうではなく、スペイン語で「聖なる河」の意味だそうだ。世界三大文明は河の流域で起こることにちなみ、新しい文化事業を興したいという意味が込められているという。

 やなせたかしと辻の出会いは、山梨シルクセンター時代、不二家のキャンディーボックスのデザインを頼まれたことだった。不二家の商品デザインをなぜ他メーカーが頼むのか謎ではあるが、やなせの著書にはそう記されている。

参考文献
『やなせたかしメルヘン魔術師90年の軌跡』(河出書房新社)
『別冊太陽 やなせたかし アンパンマンを生んだ愛と勇気の物語』(平凡社)
『これがサンリオの秘密です』(扶桑社)

史実では「困ったときのやなせさん」――嵩は“ファイティングやない” 漫画を描けぬまま走り出したその理由【あんぱん第101回】