俳優の山本富士子俳優の山本富士子 Photo:SANKEI

女優の山本富士子がOG
森光子も一時在籍

「おうき」高校という。「沂」とは水ぎわの意味だ。京都市の中心部を北から南に流れる鴨川の西500メートルに、校地がある。1872年創立の、日本最初の公立女学校を前身とする。開校150余年の伝統を誇る。

 全国の公立高校では稀有(けう)な例だが、旧制、新制時代を通じて芸能人として活躍した卒業生、あるいは同窓生が数多くいることを特筆できる。

 まずは山本富士子。映画黄金時代の傑作に多数出演し、天下の美女とうたわれ、昭和時代の美人の代名詞になった女優だ。1931年生まれ。大阪府立大津高等女学校(現泉大津高校)から京都府立京都第一高等女学校(通称「府一」)に転校してきた。校名は在学中に府立鴨沂高校に変わったが、「急に男女共学になり学校生活もしばらくは落ち着かなかった」「男子学生から…ラブレターのような手紙をいただいた」(2002年12月8日 日本経済新聞『私の履歴書』)という。

 1950年の第1回ミス日本コンテストに選ばれたのがきっかけとなって、映画界入りした。『夜の河』『彼岸花』をはじめ、53年から63年にかけて多くの映画で主演したが、山本を締め出す映画業界の「五社協定」によってその後は銀幕から遠ざかり、テレビや舞台で活躍した。

 鴨沂高校から1.5キロ南に行った(京都では「下がった」と言うが)寺町通三条下ル西側にあるビルの壁面には「女優 山本富士子邸跡」と記された石碑がはめ込まれている。存命中からこういう碑ができているとは、さすが大女優だ。

 ただし山本は、筆者の2014年のインタビューに対し、「その石碑は見たことがない」と言っている。新制鴨沂高校の2期生(1949年卒)だったが、卒業証書は鴨沂高校名ではなく、京都第一高等女学校の名義でもらった、という。「どっちがよいか」と、学校から尋ねられたからだそうだ。

 山本より約10年前には、文化勲章受章の女優・森光子も「府一」に1年生の1学期だけ通っていた。山本とは違って映画出演は少なく、テレビドラマや舞台での活躍が多かった。『放浪記』の舞台公演は2017回を数え、2009年には国民栄誉賞を授与された。「芸能界の母」のような存在だったが、2012年11月に92歳で死去した。

 新制卒になるが、東宝の看板女優になった団令子も卒業している。コミカルからクールな悪女役までこなす演技力が評価された。1974年に引退し、2003年に68歳で死去した。