流行は人の趣味嗜好を変え、思想を変え、文化をも変えてしまう。インターネットは情報の広がりを速めた代わりに読書の文化を衰えさせ、流行語は曖昧な感情を簡単に共有できるようにした代わりに、いくつかの日本語を日常から追い出した。それが自分にとって有益なものか害のあるものか、実際に齧ってみなければわからない。
流行りモノには
やっぱりついていけない
流行によって起きていく変化を、自らを積み木の塔だと思い込んでいる私は怖がっているのだ。やっと形になりつつある積み木のお城に満足していたら、新しい色の積み木を足してほしいと言われて、変化に対する恐怖と、面倒さ、そして今の形にケチをつけられた苛立ちも相まって「崩れるから無理」と、よく考えもしないで拒否してしまう。素直に検討して、積み木を足せばもっと良い塔になるかもしれないのに。

私はBeReal.(編集部注/Z世代を中心に人気を集めている、自分の日常をありのままに投稿するSNSアプリ)の誘いも拒否した。皆が集まってお互いをフォローし合っているなかで、私ひとりだけが頑なにスマホを出さなかった。「本当にやらないのね?」と聞かれ、意地になって「やらない!」と返事をした自分を殴りたい。もう誰も、私をBeReal.に誘ってはくれない。
Bluesky(編集部注/マイクロブログに特化したSNS)もやってない。Threadsの招待は無視し続けている。笑ってくれ。10年後、私が誰もいなくなったTwitterでくだらないツイートをし続けていたら、指を指して笑ってくれよ。
先日、通りすがりに80代くらいの老紳士たちの会話を聞いていたら、そのなかのひとりが「エグいねぇ」と言った。アク抜きされてないタケノコでも食べたのかと思って一瞬聞き流したが、会話の流れは間違いなく、若者が使う「エグい」の文脈そのものだった。私は震えあがった。この紳士の積み木の城は、一体どれだけ高く聳え立ち、美しい形をしているのだろうか。