良くも悪くも、平成から令和の時代には、少年は「大人」とはみなされていないということだ。

 事件から、20日後。山口は収容されていた東京少年鑑別所で首をつって自殺した。

 もし、彼が命を絶たなければ、どうだっただろう。彼は高校を中退し、保護観察中ではあったが、凶悪事件の前歴があったわけではない。くわえて、少年法は18歳未満の死刑を禁じている。まかりまちがっても、彼が死刑になることはなかった。

 18歳未満の少年にとっての極刑は、無期懲役。少年だから、ある程度の期間をすぎれば、出所する可能性が高い。令和の時代に、傘寿の山口二矢がシャバで暮らしている――なんて現実も、十分にありえたのである。

 いずれにしても、事件当時、山口はまだ17歳。安保闘争に明け暮れた当時の若者の多くが、やがてゲバ棒を降ろし、サラリーマンとして社会化されていったことをみれば、山口が更生する可能性がなかったとはいいがたい。

 そうしたことを考えれば、この山口二矢の実名報道は、彼の更生可能性を著しく阻害した――ともいえるのだろう。

 ただ、そうした現実に、世間も、報道も、まだ無関心だった。

 それはすなわち、まだ「少年事件」が産まれていなかった証明ともいえるのだろう。

19歳の連続ピストル射殺犯は
実名も顔写真も報道された

 ならば、いつから少年事件は、大人の事件とは違った見方をされるようになったのだろう。少年事件は、いつから少年事件として特別視され、注目が集まるようになったのか。

 おそらく、それは1969年からだ。

 永山則夫、19歳。その年に逮捕された連続ピストル射殺事件の犯人だ。

 無知の涙――と聞けば、思い浮かぶ方も多いだろう。

 永山は、1968年秋、東京で見ず知らずの男性ガードマンをピストルで射殺した。それを皮切りに、京都、北海道、愛知と逃避行をつづけながら、夜警のガードマンやタクシー運転手を射ち殺した。わずか1カ月たらずで、じつに無辜の市民4人を殺害した。

 凶器は、米軍基地で盗んだ22口径の回転式拳銃。殺めたのは、出合いがしらのような縁もゆかりもない人々。そして永山は逃げつづけた。むろん、今のような防犯カメラによる監視態勢がない時代だ。犯人はすぐには特定されず、社会は震撼した。